サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

「普通」ってなんなんやろーと考えてみた。

普通とは...大辞林によると以下

① いつでもどこにでもあって、めずらしくない・こと(さま)。 「日本に-の鳥」
② ほかとくらべて特に変わらない・こと(さま)。 「ごく-の家庭に育つ」 「 -ならもう卒業している」
③ 特別ではなく、一般的である・こと(さま)。 「 -高校」
▽⇔ 特殊

ということです。

 

ちなみに常識は、大辞林によると以下

① ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。 「 -では考えられない奇行」 「 -に欠ける」
② 「共通感覚」に同じ。 〔「哲学字彙」(1881年)に英語 common sense の訳語として載る〕

となります。

 

よく「普通はこうでしょ」とか「常識ではこれが当たり前」という台詞を耳にしますが、毎回僕はその根拠はなんなのかを考えてしまいます。

それを言ってる人に直接聞いたりもしますが、結局のところちゃんと説明してもらえなかったりして、根拠は見えない場合が多いです。

みなさんは「普通」とはなんだと思いますか。この辞書の通りに考えてはりますか。僕は言葉はちゃんとした意味通りに使う方がいいと思ってますが、「言葉のあや」ということもあるように日々個人の解釈が入って同じ言葉でも違った意味合いになっていることがあると思います。

 

僕は「普通」は「宗教」だと思ってます。

これを聞いて、宗教に対する捉え方によってはそんなわけない、違うわ!と思われる人もいるかもしれませんが、なぜそう思うかをよければ読んでもらえると嬉しいです。

 

まず宗教について書く必要があります。宗教も色々なものがあったり捉え方も様々ですが、今回の記事で言いたいのは以下のような意味での宗教です。

「本来自明(当たり前)ではない。しかし信者はそれを自明のものと考え、改めて疑うこともせず、また時として、その存在について問わないことを強いられる。さらに信者は日々の生活や儀礼を通して、超自然的存在が自明のものであるかのように振る舞う。」

何が言いたいの?と思われるかもしれません。ですが、よく言われる「普通はこうでしょ」はここに当てはまると思います。

寒い日に暖かい部屋から半袖で出ようとする子どもがいたら、上着を着せてあげるのが普通と思われる方は少なくないと思いますが、僕からしたらそれは普通ではありません。必ず本人の意思を聞かなければならないと考えて行動します。

僕は「普通はこうでしょ」と言われると、えっ!?と反応してしまいますが、それで「普通ってなんですか?」と聞くと、もっと大きな「えぇっっ!?」という反応が帰ってきます。

「その存在について問わないことを強いられる」のです。

 

さて、強いられる中でもその存在を問いたいと思います。

 

みなさんにとって、

「普通」とはなんですか?

 

 

正しいことは無い?

自分の考えを整理したいので、久しぶりに更新します。

 

関西へ帰るバスの中、最近ハマっている第5人格という鬼ごっこのゲームをしてたら酔って気持ち悪くなりましたが、意図的に寝ることに成功して事なきを得ました。いやぁあの新潟→佐渡のフェリーで吐き気満々になっても寝れたときを思い出す。まだまだ体が健康ということでしょうかね。

 

前置きはこの辺で、教育関係や他の色んなことについてもよく言われてる「正解は無い」「何が正しい間違いは無い」という発言。本当に何が言いたいのかはその人に聞かなわかりませんが、いい言い方ではないかなと思います。最悪そこで思考停止してるのではないかとも。
 
僕も言ったことはありますが、なんとなく「これ以上考えたくない、考えが及ばない」という意味合いなのかなと思います。「色んな意見があるけど、どれもいいよね、正解は無いね」みたいな。

 

責任を持ちたくないから保険をかけてるようにも思いますが、正しいと決めつけられないのと同じように、正しいはないとも決めつけられないと思います。本当に正解が無いと思えるならどこか現実的ではない話になっているのかもしれません。
 
僕は、今目の前に直面しているテーマや人や社会にとって、細かい時と場合による正しさを考えて話し合う必要はあるし、正しいと決めつけられると思ってます。実際には中々そこまで話し合えないこともありますが。 
 
話し合って正しさを決めきれないときはあるかもしれませんが、それでも今後一切正しさを決め得る余地が無いと言い切れるとは思えません。 
 
もちろん正しいと言うからにはそれ相応の根拠が要るし誤りがないか常に考え更新し続けなければいけません。それでも、正しさを探していく姿勢は人として必要不可欠ではないかと思います。

子どもが将来社会でやっていけるのか?という話。

こんにちは。かずまっくす@1/28栃木 (@HunterSussan) | Twitterです。
 
今回は「子どもが将来社会でやっていけるのか?」というお話をしていきます。まずはじめに、このテーマを語るということは、同時に「そもそも社会とは何か?」という問いをたてるということでもあります。いわゆる「就職(正社員)=やっていけている」みたいな古い固定観念はここではあえて語らないで、新しい可能性を探りたいと思います。
 
「社会」とは、なんですか?
  
逆に「社会でやっていけない」というのはどういう状態を指すでしょうか。働いてお金を稼ぐことができないとか、周りの人との人間関係がうまくいかないとか...それも一つとは思いますが、多少の失敗はしたとしても、「絶対にやっていけない」という状態はあまりイメージが思い浮かびません。「失敗は成功の母」と言われるくらいですし。一方で、「やっていけている」というのはどういう状態か。
 
いくつかの「社会」のイメージの話をしていきます。まず、学校は、自分に必要なことを学ぶために集う場所ですが、これは一つの小さな社会であると思います。ピアノや水泳の習い事や、音楽やスポーツ、オンラインコミュニティなどでの趣味の集まりも、一つの小さな社会といえます。家庭は「公」と「私」が無い場合もあると思いますが、家族であろうと「基本的人権を犯してはならない」という点では、小さな社会の一つといえます。仕事場、会社はどうでしょう。物を作ったり売ったり、世の中をより良くするためのアイデアを練ったり。これも、何かの目的のために集まる場所で、小さな社会です。こうして、どれも一つの小さな社会であると考えると、会社だけが社会であるという考えには違和感が生まれてきます。
 
僕は、子どもが家庭や学校から経験を積んで_何らかの大きな社会_へ出ていく。とはあまり思いません。家庭というごく小さな社会に生まれ、学校という小さな社会を経験し、また会社という小さな社会に移っていく。また同時に、趣味や友人関係などいくつもの小さな社会に身を置いたり、新たな社会を作っているとも思います。皆等しく大きな地球の上に存在する権利を持って、無数の小さな社会を転々としているだけなんです。
 
「社会」とは、それは、「人が生きるために、必要に応じてできた集合体」だと僕は思います。
 
「(何かをクリアしないと)将来社会でやっていけない」のではなく、「人がやっていくために社会を作る」のです。
 
 
多種多様な学校も増えてきて、公立校も変化を遂げています。一つの学校に合わなかったら、すべての学校でやっていけないなんてことはないと思います。一つの会社でダメであっても、世の中に会社はごまんとあります。一人の恋人とうまくいかなかったら、他の誰とも絶対にうまくいかないですか?もちろん一時的には苦しい辛い思いをするかもしれませんが、「すべてでやっていけない」というのはあまりにも根拠が無いことです。一つ一つの小さな社会で「やっていけている」かどうかを考えたときには、結局のところ、今の自分に(今いる社会に)満足しているかどうか、かなと思います。
 
この記事を書いているときに、デモクラティックスクールに通って大学に在学中の星山まりんさんが、ちょうど自身のブログを更新されて、“滑稽なのは、職種でも働き方でもなく、そこに意思がないこと、です。”と言っています。
 
ブログ記事はこちら↓
ai-am.net
 
サドベリーの話を少ししますが、デモクラティックスクールには、基本的人権を守り、どんな価値観も排除しない」という特徴があります。日々大小の問題が起こっても、「あの人はうちの社会のやり方には合わない人だから排除しよう」という選択がそう容易くはできません。常に相手との合意を図り、どんな人(価値観)も受け入れられる小さな社会を自分(たち)による自治で作り続けています。そんなスクールに長く通った子が、他の社会でやっていけないとは到底思えません。自分を尊重しているし同じように他人も尊重できるからです。
 
日本のサドベリーを出て今社会に出ている人達に、「一般的な与えられる勉強をしていないことで、何か困ったことはありますか?」と話を聞くと、出てくるのは「領収書の漢字がすぐに書けなくて、調べて書いた、お客さんに書いてもらった」という話くらいです。何も問題はありませんし、勉強していないことを誰も恥ずかしいと思っていません。恥ずべきは、自分の中にある羞恥心そのものということです。※サドベリーで自主的に勉強をこなして、大学や専門学校へ進学する子も少なくないです。
 
自殺してしまう人が多い現代の日本です。意思がないのに「当たり前だから就職する」といって嫌々働く人達は、果たして「社会でやっていけている」のでしょうか?
 
答えのないような問いにも思いますが、引き続き考えてみようと思います。

毎年各地のスクールを巡って思うこと。

今年で4回目になる「全国サドベリーツアー」が終わりました。

 

ツアーで訪問させてもらったり、仕事の関係や個人的にも各地のスクールを訪れることが多い僕ですが、今思っていることをまとめておきます。

 

各々のスクールが同じような理念で運営されていて、「ミーティングがあります。ルールはみんなで決めます。一人一票の権利があります。」などと、大枠はほとんど全く同じシステムなのですが、集まる人によって本当に全然雰囲気が面白いほど違います。違いすぎます。ですので一つや二つのスクールを見たり聞いたりしたくらいで「これがサドベリー、デモクラティックスクールか!」と理解した気になるのは時期尚早と思います。

 

それぞれのスクールが違っていいね!というよりは、人によっては明らかに面白いスクールと面白くないスクールと分けられちゃうような、上位互換になってると思うので、正直なところ同じ名前でも同じスクールとは思ってほしくないくらいです!ただの個人的な感想ですが。笑

 

では何が違うのか。スクールの校舎の大小、所在地が都会だったり田舎だったり、設備や備品が整っているか、スタッフや生徒の年齢性別の割合、そんなことは一長一短、皆で自由に決めれば何だっていいことです。

 

他のスクールを訪問させてもらうと、いつも色んな疑問や違和感を抱きます。これが少ないスクール、誰の目にも分かりやすいスクールほどに成熟度が高いなと思うのですが、「なぜこんなルールがあるのか?ミーティング決定の根拠が浅はかではないか?さっきのスタッフの在り方は本当によいのか?」など思うことがあります。

 

これ自体はむしろ良いことで、色んな視点から見て分かりやすいスクールにするために、より良くできる可能性、改善点を見つけたとも言えるからです。それに他のスクールを見ることで、自分が今いるスクールに活かせることも多々あるので僕もそうですが、正しい批判は本来歓迎すべきことなのです。

 

ここでひとつの説を立てたいと思います。「サドベリースクール、デモクラティックスクールの質の高低は、普段の会話、公式な議論(ミーティング)の質によって決まる。」

 

僕が多少の疑問や違和感を抱くくらいなら僕がおかしいだけの可能性も大いにあるのでそんなに問題ではないのですが、何度も見させてもらっていると、正直なところいち場面にすぎませんが、ミーティングが成り立っていない、日常会話がうわべなので本音が言いにくい、状況が生まれているところもあるなと思います。ルールが決まっているのに守らない、守らない人を見ても黙殺する。という場面も見ました。

 

公式なミーティングで必要だから決めたルールを守らない、ルールの存在そのものを無視するという私的行為を許してしまうのは、「ルールで決まっているけど今いるメンバーが良ければそれでいい。」ということ。これは公私混同で、民主主義を履き違えているのではと思います。

 

ただ、デモクラティックスクールの良さは、いつなんどきでも、より良くすることができることです。問題があれば改善できる。一つの不自由を見つけたその時は不快感やめんどくささがあっても、それを自由にできればより多くの自由を保証できるということです。

 

これだけ各地のスクールにお邪魔させてもらっているので、よくも悪くも表も裏も知りつつあるので、せっかくなので各スクールがより良くなったり自分にも活かせるように色んな意見交換をしていきたいです。

 

みんな違ってみんないいとか、正しい・間違いは無いとか言うのは簡単ですが、どちらかの方がより良い可能性は?組み合わせてまた違う案は生まれないか?そもそも本当に違うのか?ということをきっちり話し合い理解し合ってこそ言えることなはずです。その会話を疎かにしている人は、互いを認め合うというよりは、核心に触れないようにしてるだけかなって思います。

 

ミーティングの分かりやすさもそうだし、普段の会話からちゃんと言いたいことが言えているかどうか。抽象的ですがスクールの日常を見れば分かります。外部の人にも雰囲気は伝わります。

 

この社会が良いか悪いかはおいといて、どんな環境でも自己主張をできる人間になれるのが、デモクラティックスクールの良さだと思うので、せっかく通うなら形だけの自由じゃなくて本当の自分を生きる経験を積んでもらいたいです。

 

ちなみに人づてですが、ボストンのサドベリーバレーには「ルール違反を目撃したら注意する義務」「注意を守らなければミーティングに報告する義務」があるといいます。これは自分の自由&責任だけでなく場の自治にも全員が責任を持って関わるということ。仮に、各地のスクールを一人の人として考えて、日本の「デモクラティックスクールネット」一つのスクールとして考えるとする。そうすると、ちゃんとサドベリーやってないスクールには注意する義務があるし、守らなければミーティングに報告する義務がある。そこまでいくと質も上がるよなぁ。

 

書いていたら延々続きますねこれは。本当に奥が深いなと思うので、サドベリースクール、デモクラティックスクールに関心がある方はぜひ僕とこんこんと語りましょう~。

サドベリーの保護者は素晴らしい。

こんにちは。スーザンです。

 

2年ちょっと前に働き詰めで半分病みながら開設したこのブログも、今回で100記事を数えました。最初の目的であった「サドベリー・デモクラティックスクール卒業生たちの紹介記事」は10記事ほどしかありませんが、、、言論の自由があるので許してください。もしリクエストがあれば卒業生たちの皆も書いてくれると思います。

 

いつも記事を書こうとして内容を考えているわけではなく、ふと内容が思い付いたら記事にしているのですが、今回は、サドベリーの保護者について書こうと思います。

 

子どもの自由と責任、人間としての権利を100%尊重し、何をしてもしてなくても善悪優劣と評価することなく信頼するサドベリーでは、保護者の協力が不可欠といえます。サドベリーは通うか通わないかを生徒自身が決めることが前提ですが、極論、親が学費を強制的に出さないこともできる以上、親の同意と、同意に至るまでの理解がなくてはならないものです。(一部、自ら働いて稼ぎながら学費を払って通う生徒もいます。)

 

たとえば、サドベリーでは完全に一人の人として扱われているのに、家では一方的に言動を規制されたりしていると、同時に2つの矛盾した環境に身を置いている状態なので、学びも半減どころかほとんど無くなってしまうかもしれません。ただし、学校と家の方針を完璧に合わせろというのも無理な話です。集まった人が違うのでそこにいる人で話し合えばいいんです。

 

僕個人的には、保護者の方がサドベリーを完全に理解する必要はないと思ってます。というか、無理に理解するべきものではないと思ってます。もちろん自ら理解したいと思えば理解できるんですが、子どもが新たな世界に踏み出していくその先はサドベリーだけではないので、子どもの人生すべてを親が理解するのは到底不可能だということです。

ポイントは子どもの選択を尊重して応援できるかだけです。我が子がプロボクサーになると言ったらその道を尊重するけどボクシングのことを理解する必要まではないという感じです。我が子がどうしてもこの人と結婚したいんだと言ったらその選択は尊重するけど相手のことを理解する必要まではないという感じです。

 

ただ、この「子どもを一人の人として尊重する」ということが頭では分かっていると思っているとしても、実際はとても難しいようです。やはり知ってか知らずか子どもの自由と責任を犯している大人は多いです。

僕には子どもがいたことがないので親の気持ちは分からないし、自分に子どもができたらあったりまえに尊重できるだろうと思い上がっているので、今まさに子育て中の親御さんの気持ちは本当によく分かりません。良かれと思って自由と責任を侵害する大人には全く共感できません。

それでも常になんでかなって考えてて、なぜ難しいのか、そのメカニズムは理解しているつもりです。

 

それは、自分の人生には起こらなかったこと(忘れていること)を日々子どもが起こしていくからです。生まれたての赤ちゃんのときは親から離れてしまうと生きていけない一心同体であった我が子が、徐々に、驚くほどの速度で、親の価値観の外にある言動をとっていくからです。

歩けるようになって自分の好きな場所へ行こうとしたり、友達ができて親以外の人間関係が主になっていったり、学校へ行って親の知らないことを学んでいたり、就職をして親に頼らず生きていくようになったり、結婚して親の価値観には合わない人と暮らしを共にしたり、、、子は親の知らないところで価値観や在り方を形成していきます。

僕はこれを、「産みの苦しみ」なんじゃないかと想像しています。男なので産めないのでたぶん永遠に想像しかできないんですが、子どもが新しい世界を手に入れる度に、親は自分の価値観外のことをする子を受け入れる苦しみ、子は親の価値観内から離れる痛みが伴うんだと想像します。

 

それでも、試行錯誤しながら子どもと向き合い、真に自分と向き合っていながら子どもを信頼・尊重している親御さんの姿勢は本当に素晴らしいと思います。僕の親に至っては、サドベリーにはそんなに興味がない(父は一切知らないくらい)けど子どもが通うと宣言したならそれを尊重してくれました。

 

そんな保護者の方々がいてくれるおかげで、生徒となる子ども達は最っ高に楽しい学校生活を送ることができるのです。

 

 向き合うことをやめなければ、必ず道は拓けます。