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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

サドベリーは「安心・安全」の場なのか?

昨日のやり取りからまた少し掘り下げてみたことをまとめてみます。

 

 サドベリーは「安心・安全」のある場だという人もいてます。逆に、荒野のよう、ジャングルのよう、雪山のよう、という人もいてます。

 

何が起こってるのかというと、「学校(公立校)に行かなくてもいい、勉強しなくてもいい。」「何してても評価されない=受け入れてもらえる。」という勘違いから捉え違いが生まれていると思います。

 

これは公立校の価値観の呪縛から逃れたいのとサドベリーを混同すると起こることなのかなと思ってて、ただ逃れるだけでいいならサドベリーでなくてもいくらでも方法はあります。

 

サドベリーは、どんな価値観も人の数だけ存在し誰にも優劣を付けることなどできない。自分が望み行動すればどんなことでも叶えられるかもしれない。というこの世界の前提がそのままスクールにあるだけ、というイメージを僕は持ってます。

 

ということになると、勉強しなくてもいい、受け入れてもらえる、安心・安全、という事実は無数の価値観のうちの一つの側面なんです。見方によってそうでもあるしそうでもないよと。

 

サドベリーの良さは、子どもが100%信頼されていることです。本人の自由にどこまで責任を持つ持たないを決められることです。

 

大人に何かを強制されることがない。とかも、もはやサドベリーでなくてもいくらでもある話で、サドベリーはむしろ、強制されることがあります。大人が一方的にというのはデモクラティック文化が成り立っていればあり得ないはずですが100%信頼された生徒達のミーティングがすべてなので、そこで決まったことには従わなければなりません。

 

僕の生徒時代だけでも、ミーティングを強制参加にする。スクール休むときは午前中までに電話を入れる。イベントは全員参加にする。掃除は各人が担当を持つ。等々色んな不自由かつ不条理な決定をしたこともありました。

 

世の中に100%などないかもしれませんが、責任を取れば取るだけより100%に近い自由になっていけます。強制参加が嫌ならミーティングに意見を出して変えられますが、出さなければ従わざるを得ない。安心・安全な場というのは自分で確保するもので、その人個人が結果的に思うことなんです。

Voi.1「八ヶ岳サドベリースクール・スタッフ(2年目)」


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こんにちは。元サドベリースクール生徒のスーザンです。この度社会人7年目に入ったので、振り返ってみようと思います。そもそも、社会人ってなんやねん?という話なのですが、そこは今回はあえて触れずに書きます。

サドベリーに通った人はその後どうなっているのか?の一例として何かの示唆になれば幸いです。

 

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1年目…2011年度

西宮サドベリーに通っていた18歳のときに「将来的に子どもはほしい。働かなければならないとは全く思わないけど、選択肢として働くことができた方がいいとは思う。」「法律上の学歴も資格も手に職も親の後継も無い自分は社会に出て働くことができるのだろうか?」という極めてネガティブな疑問があり、これは社会に出て働くことでしか進展しないなとの考えから社会に出て働くことに。知り合いの紹介から【屋内塵と昆虫の研究と調査】をしている会社に入る。普通に楽しく働けることが分かる。

2年目…2012年度

とりあえず仕事ができることが分かったが、虫と関わるのも面白いけど子どもと関わりたいなとの思いから当時人手も不足していた【西宮サドベリースクール】のスタッフに立候補し選挙で当選してスタッフに。スタッフとしてどう動けば良いのか?と試行錯誤の日々。自分でお金を稼ぎ始めても実家ぐらしでは親に甘えている分親(9割9分9厘母)の執拗な愛にも付き合っていかなければならない、嫌なら自分が尼崎の実家を出るべきだと悟る。諸事情によりサドベリーと昆虫の会社にも勤め続けてダブルワーク。

3年目…2013年度

スタッフ選挙に当選して2年目、昨年から同期でスタッフになった「よねすけ(彼もサドベリーOB)」がスクールの広報担当としてマーケティングの鬼さながらの働きを見せ、触発されて個人的にサドベリーを広めたい・自身の見聞見識を広めたいと色々な人と会いはじめ、全国サドベリーツアーも開催する。スタッフはどう動けば良いかというより、自分がスクールのためになると思うことをひたすらこなしてあとは生徒が選ぶだろうということをスタッフ2年目にして思う。引き続き実家に甘えながらのダブルワーク。

4年目…2014年度

スタッフ選挙に当選して3年目。サドベリーツアー2回目開催。サドベリースタッフとしての在り方が腑に落ちてきつつある中で、自分がやりたいのは「サドベリースタッフ」なのか?「西宮サドベリー」が良いだけなのか?との問いに至る。これを確かめるために自分が通ったスクールではないところでスタッフをしたいと思い4年目には立候補しないことを選ぶ。この年仕事の合間に【洛西フリースペース】のボランティアと【エネルギー整体師さんの事務局】としても活動し実家に甘えながらのカルテットワーク?状態。なお、西宮サドベリーのスタッフ3年間で生徒数3倍増及び人件費3倍増を達成。

5年目…2015年度

西宮のスタッフを辞し、他のサドベリーに就活を開始。この間は働いても働かなくても何しててもいいかなと思っていたら横浜市の【私立保育園】で働かないかと紹介される。実家は出たかったし保育園で働ける機会なんてないだろう!と前年度中に丸一日で面接と物件を決定。横浜暮らしを始めるも職場のブラック状態に心も体も大きく消耗して絵に描いたように実家の有り難みが身に沁みながら、このブログを立ち上げる。半年が経ち思いのほか早く八ヶ岳サドベリーからスタッフの声がかかる。半ば強引に(法律は守りました)職場を引き上げ癒しを求めて1ヶ月間尼崎の実家に引き篭もった後、翌年1月から八ヶ岳へ移住しスタッフに。

6年目…2016年度

本格的に【八ヶ岳サドベリースクール】のスタッフになり、サドベリーといっても場所によって何もかも全く違うことを知る。日常のルールから広報活動、会計や事務に至るまでスタッフの仕事を作新・確立していく日々。西宮サドベリーが良いのではなく、自分はサドベリースタッフをやりたいことが分かりこの仕事を一生やってもいいなと思う反面、別に住みたくもない土地にそんな仕事を見つけてしまった人生の宿命を感じる。なお、スクールの会計を担当した本年度は収支黒字を達成。私生活面では最愛のパートナーに出会い、サドベリーだけでは食っていけないからと市内で一番まかないのウマい【海鮮居酒屋】で夜は働く。

7年目…2017年度

八ヶ岳サドベリー初のスタッフ選挙により2年目もスタッフとして雇われる。人件費UPに成功したため副業をやめる。副業をして疲れてモチベーション・ポテンシャルを落とすほどヤワではないが、ときに副業をしてることを言い訳に使ってしまう人間のクズな一面を排除し、人生で初めてやりたい仕事だけで生活していく2017年度が始まる。

 

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ということで僕の社会人生活を振り返ってみました。やりたいことをやるのが善と語られがちですが、僕はやりたくない好きでもない仕事をするのも全然いいし全部に納得できなくても文句を一切言わずに働いて僕たち兄弟を育てた父を見ているので、どんな仕事でも働くのはとても偉大なことだと思っています。

そんな中で、やりたい仕事をやらせてもらえるのは本当に有り難いことです。2017年度はスタッフの質を最大限に上げると共に八ヶ岳の地にサドベリーの文化を作っていくことに全力を注ぎたいと思います。

 

せっかくこの命を使わせてもらうのだから、何もかもなぁなぁにせずに生きていきたいです。

子どもを「自由にさせる」のでは何の意味もない。

 

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

サドベリーをはじめ、「子ども×自由」という方程式に対して、自由にさせていると自分勝手に育つのでは?好きなことしかできなくなるのでは?という意見を聞くことがあるので、ここで言及しておきます。

 

前口上として述べると、こういう聞き方をする人は、自分は不自由に生きていると思っていて自由に生きる人を許せなかったりすると思うのですが、不自由に耐えて日本を作ってきた人もいて今があるので、僕の祖父母やその祖先が存在してこそ僕が存在するので、それ自体は必須であると言わざるを得ません。ただ、その時代を踏襲した上で新しい生き方を模索していくことが今を生きる人の使命だと僕は思っています。

 

僕自身が毎度拙文ながら、皆さんも言葉はよくよく吟味して使うべきです。子どもを「自由にさせる」のでは何の意味もありません。「サドベリーに通わせる」のでは意味がありません。それでは、子どもは自由ではないという前提があるからです。

「子どもに学校を選ばせる」だと、親に学校を選ぶ権利がある前提です。「ピアノの習い事をさせる」「プログラミングの勉強をさせる」これも同じです。させる権利がある前提になります。これらをさせる権利って元来親にあるものでしょうか?

人は生まれつき、ピアノが好きになったら習う権利があって、プログラミングの勉強をしたくなったら勉強をする権利を本人が持っているはずです。興味がないことをさせられる必要はないはずです。

 

少し違う話ですが、なんかの話を聞いたりして「考えさせられました…」と言う人がいますが、いや、お前が考えたんやん!!と僕は思います。

 

サドベリーではスクールの開校時間は全て本人の自由に活動ができますが、開校時間外の過ごし方については全く感知しません。なので、家庭での方針は様々です。

家族でちゃんと交渉した上で決めているなら何の問題もないと思いますが、家では強制的にゲームをしてはいけない・勉強しなければならない。しないとサドベリー辞めさせるよ。しないとご飯抜き。小遣い減らす。などなど。。。権利が親にある家族もあります。

学校と家庭の方針を完全に一致させる必要はさらさらありませんが、違いすぎるのもどうかと思います。サドベリーに変に共感してくる輩の中には、残念ながらそういう人たちもいます。矛盾しているようですが、「子どもを強制的に自由にさせている」のです。

 

矛盾です。子どもは自由と責任を元々持って生まれてきてるのに、それをいつしか奪われてしまって、今度は自由に生きろ・責任を持てと言われるのです。

 

他人が作った自由は疑似体験でしかなく、他人に持てと言われて持った責任はウンコの連鎖でしかありません。どちらも、深いところまで意識がいかないんじゃないかと思います。大人はこんなに素晴らしい経験をさせたと思っていても、子どもはこれでいいやと妥協しています。

 

本当に自由を語りたくば、自分で責任を持ちたければ、学校へ行く行かない、勉強や部活をするしない、飯を食べる食べない、昼間っから寝て夜更かしして、いつ喋って黙るかに至るまでも個人の責任「自由」と言わなくちゃ話になりません。

 

そこまでの自由が子どもにあるのは日本ではサドベリースクールだけだと思います。

 

サドベリーを自分で選んだ子にとっては他のどんな環境よりもずば抜けて好きなことことができて、結果そのまま何の問題もなく社会に出られる。僕は間違いなくそう思います。

 

おわり。

 

クレヨンしんちゃんを子どもに見せたくない理論。

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

僕は子どもの頃からクレヨンしんちゃんが大好きでアニメも漫画も見まくっていましたが、いつ頃にか「子どもに見せたくないテレビ番組ランキング」みたいなのがあって、ワースト1位とかって言われてたことがありました。

 

常にお尻を出している、ウンコぶりぶりとか言う、年上のお姉さんが大好き、汚い・品が無い、悪影響だ、などの酷評をされていて、僕はえぇー!こんなおもろいのになんでやねん!と思ったのを覚えています。めっちゃええ話多いし。

 

お尻を出すのが悪影響で真似されたくない…って我が子がそんなことすらも判断できないと思っちゃうんでしょうか。ただ親が気持ち悪い・不快で見たくないだけかもしれませんね。だからって子どもに見ないことを強制するのは本人の権利の侵害です。自分と違う価値観を尊重して話し合うしかないはずです。

 

ってしんちゃんで例えると、そんなことする親って馬鹿なんじゃないのー?って笑い話にもできそうです。モンスターペアレント然り、そんなことも受け入れられないなんて、という話ですよね。それなりに少なくない人が分かりきって理解できると思います。

 

これ、しんちゃんじゃなかったらどうなんでしょうか。例えば…ゲームとか。学校に行かないとか。勉強しないとか。プロボクサーになるとか。不愉快な異性と交際するとか笑

 

親にとっては不安になることや考えられないようなことを子どもが選んだとしても、すべてにおいて、一意見として私はこう思うと伝えたりやめてほしいんだけどどうかな?と交渉することはできても、親に決める・止める権利はないんです。

 

子どもの権利を奪ってしまう行為は、クレヨンしんちゃん見ちゃダメ!って言ってるくらい顕著なので、親のエゴや不安をこれからは「クレヨンしんちゃん症候群」と呼びたいと思います。

 

おしまい。

「不登校でも大丈夫。」とは絶対に言っちゃいけない。

 

こんにちは。サドベリースクール請負人を目指す、スーザン (@HunterSussan) です。

 

さて今回は、普段当たり前のように使われている言葉を疑ってみようという記事です。

 

不登校でも大丈夫!」という言葉をよく聞きます。不登校支援はしていないサドベリー界隈ではほとんど使われませんが、これは、学校へ行かなければならない。という強い思い込みの反動からくる言い方のように思っています。

 

学校に行かなければとはもう思ってない人でも、無意識に大丈夫じゃないかも?と疑う前提があるから、大丈夫と言うんです。

 

掘り下げて考えていくと、学校に行かなければならない。と思い込む必要が無いだけだと思います。もっともっと考えると、不登校とかもはや関係なくて、人は自分のしていることが大丈夫だと思いたい。だけなのかもしれません。

 

本当は、すべての子どもが不登校でも大丈夫だと保証できる人なんていないはずで、逆にすべての子どもが学校に行かなければならないと確定させられる人もいないはずです。

 

それなのに、でも、と言っちゃう時点で暗にネガティブさを孕んでいますし、大丈夫!と言ってあげなきゃいけない弱い存在ということを無意識に認めていることになると思うんです。そもそも学校に行かないことはネガティブでもなんでもないし、逆に絶対に大丈夫!とか学校行かない方が素晴らしい!とかってポジティブに無理やり持ってくのもどうかなと思います。

 

ということは、普遍的には、すべての子どもにとって不登校になるのは大丈夫かは分からない。が正解ではないにしてもより正確なんじゃないかと思います。もし大丈夫だと言うとしても、あくまで一人ひとりの意見として、僕はそれで大丈夫だったよ。とか、あなたはそうしたいならそれが良いんじゃないかな。くらいしか言えないんです。

 

絶対に言っちゃいけない。と書いたのは、僕がそういう言い方はしたくないというだけです。皆さんは言ってもらっても構わないです。ただ、言葉の一つ一つが持つ力は考えてほしい。

 

昔は特に、行かなければ、という思い込みが強かったように思いますが、これからの子ども達は思い込みを持って生まれてはこないはずなので、もうその言葉は必要ないです。というか、必要がない社会にしていきませんか。

 

個人の私見ですが、「不登校でも大丈夫!」という言い方は、本当に学校へ行くことしか選択ができなかった時代の言葉だと思っています。今は、時代が少しずつですが変わり、行かないこともフラットに選択できるようになりつつあります。ここで大丈夫だと言ってしまうと、時代を逆行してしまうような、そんな気さえするんです。

 

だから僕は、不登校でも大丈夫。とはこれからも絶対に言いません。