サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

日本のサドベリーのパラドクスについて。

 

サドベリーのパラドクスを見つけました。

上手くはまとまっていないんですが書きます。

 

子どもに「自由な場を作る」という意識でやってるスクールなり大人の人は、「世の中は不自由だから」という前提を暗に作っているのではないかと推察します。それにより目的が「不自由から自由になること」が第一となると、世の中に不自由を感じている人が集まるんです。日本が「民主的じゃないから民主的な場を作る」もそう。

不自由を感じている人というのは、もっと本質的には「不自由を感じていたい人」なんだと思うから、自由になるとそれが怖くてまた何らかの枷を探します。実はそれらの民主主義が嫌いな人が集まってしまっていて、そうするとサドベリーの要であるスクールミーティングが成り立たちません。フラットに話し合うことに抵抗が少なからずあるからです。

もうちょっと主観的な感じでいうと「世の中って不自由だなぁ、サドベリー入ってみよ、へぇー自由じゃん、でも責任負うのはめんどくさいから不自由でいいや。」で自由を避けていくんです。

 

とにかく、自分が不自由だから自由を求めているような人が集まる場になっていると「解放」という意味での自由が強くなります。自分だけがやりたい放題できればいいけど、サドベリーでは自分だけの自由(好き勝手)は意外とすぐに終わるので、それができなくてもどかしい日々を過ごすだけになります。

無論そういう人がサドベリーに向いていない、と決め付けることもできません。一人ひとりが多様であるからには当然色んな人がいます。それが多すぎたり偏りすぎると、場のフラットさが保たれなくてぐらぐらするんだと思うんです。

 

元から自由に生きていて、さらに自分のやりたいことを追求したい(とにかく遊びまくりたい、やりたいことがないから考えたいとかも含め)ような人がサドベリーには最も向いているのではないでしょうか。「世の中は不自由だ」と思っている人にとっては深いところで最も厳しい環境になってしまっているのかもしれません。

本当は「自由である」と思うのも「不自由だ」と思うのもフラットであるべきなのがサドベリーだと僕は理解しているので、不自由や民主的でないのがよろしくないなどという前提を作るということは、「子どもに対して自由や民主主義を押し付けている」のであります。

 

それが、サドベリーのパラドクスです。特に昨今の「サドベリーを作りたい!いぇーい!」とテンションが上がる大人を見て…よくよく思います。

 

社会でできなかったことをサドベリーでやろうとするからパラドクスに陥る。それは、サドベリー=社会だからなんです。

 

 

おわり。

 

 

「学校行かなければならない」は「天動説」と同じ。

 

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

先週色々考えていたときに出てきた例えが面白かったので、少し掘り下げてみます。

 

「学校へ行かなれければならない。」と言う人、思っている人がいてますね。これは、「天動説」と同じなのではないかと思いました。何が同じかというと、自分が見ている世界がすべてだと思い込んでいるところです。そして、自分の知らない世界があるかどうかには目を向けず、場合によってはその価値観を他人に押し付けてしまうことがあると思います。

 

「親の言うことにはいつ如何なる場合でも従わなくてはいけない。」

「地球は平らであるから水平線の先へはいけない。どこかへ落ちて死んでしまう。」

「すべての子どもが自分に合った教育・学校を選ばなければならない。」

「規律に束縛される公立校よりも、フリースクールの方が望ましい。」

「サドベリー教育など、子どもにとって自由は最高の教育である。」

「(サドベリーでは)大人は提案してはならない。退屈のプールに浸けるのが善い。」

 

たとえばこういうことを「自分」が思ったり確信するのは自由ですが、「他人」に押し付けてはいけません。価値観が違うと共感し得ない可能性があるからです。

さらに、それぞれの価値観は科学的にも物理的にも誰しもが納得するほどの根拠がないと思うので、ある視点から考えれば「大いに間違っている」ともいえるのですが、間違っているのが「悪」でもありません。

その人がそう思うのには何らかの理由があるはずです。そこにある価値観に目を向けずに「天動説は間違っている、この時代に何を言ってるんだ。」と言い放つのは、それも同じく価値観の押し付けにあたると考えます。

 

すべてにおいて、相手の価値観がそうなのであれば、根本的には、尊重しないということができません。どれだけその解釈が見当違いであっても、相手がそう解釈したことは事実だからです。その解釈を信じるに至る経緯が必ずあります。

必要であれば、「僕は地球が動いていて、しかも球体状なんだという新発見とその根拠を知ってるんだけど聞いてくれる?」とか、「学校ね、行かなくても好きなことだけやってても、自分の望んだ人生送ってる大人を知ってるよ。あと、学校といっても法律が変わってきていたり、選択肢が広がってきてるところもあるんだよ。」とか、提案してみることは自由にできるので、したければしたらいいと思います。

 

僕は、サドベリーってのがありまして…という会話はしてみますが、理解し合える部分とし合えない部分が誰とでもあるので、そのときの自分が話せる・話したいことを出し切ったら、あとは相手しだいですし「天動説」のように「学校行かなければならない」を引き続き信じるのであれば、「来世で会いましょう~」と思います。

 

すべては「会話力」だと思います。これからも頑張りたいです。

 

 

生徒とスタッフの違い。

 

こんにちは。スーザン(@HunterSussan) です。

 

現在僕はサドベリーのスタッフ5年目になりますが、6年の生徒時代と比べて何が違うのかを書いてみようと思います。

 

カリキュラムは課されていない。どう思いどう動くかは自由。ミーティングでは1票の権利。学校運営には対等に意見を出せる。年上は偉い・年下は稚拙ということはない。何をしても何もしなくても評価されないけど、自分がしたことはすべて自分にかえり、日々の何事も学びとなり得る。 

 

このあたりは同じで保護者もほぼ同じですが加えて「活動には関与できない」 ということだと思います。同じことが多いように思われますが、僕は生徒とスタッフをやってみて、立場による必然的な特性の違いが大きいと感じています。

 

僕は生徒のときは主に、自分の人生をどうしていこうか。という視点でスクールに通っていたと思います。自分の好きなことをしたり悩みに悩んだり。その中で必要に応じて、人を増やしたいなら広報活動のことを考えたり、スクールが赤字になってつぶれるのが嫌なら予算を鑑みて不要な部分を添削したり。

 

これもどこまでどのようにするかも自由なので、例えば自らスクールの代表になってイベントをやったり広報活動に励んだ子もいましたが、広報に関しては僕はあまり関与していなかったと思います。スクールを存続させることよりもどうしたら自分が自由に活動できるのか。が主だったんです。

 

今度は、スタッフとしてどう動くべきか、という視点で考えてみます。前述の通りカリキュラムは課されていないので、本当にどう動くかは自由です。仕事をすることもしないこともできます。そもそも、サドベリースタッフは何が仕事なのかすら決まっていませんから。

 

一方で「生徒がスタッフを選ぶ」という前提で総括してみると、どうでしょうか。誰かに言われないと何も動かないスタッフと、自分から仕事を作ったりスクールの改善案を出してくるスタッフがいたとしたら。生徒が自分だけの好き・嫌いだけでスタッフを選ぶこともできますが、生徒の活動のサポートが満足できる人、広報戦略に長けた人、ミーティングでの話し合いが上手い人等、自分は好きでも嫌いでもスクールに必要な人をクビにしてスクールが潰れてしまうリスクも背負って考えなければなりません。

 

その結果としては、総合的な学校運営に必要なスタッフが選ばれるのは当然のことです。僕も生徒時代は自分が好きかどうかとこのスクールに必要な人材かどうかは完全に分けて考えていました。自分だけが好きなだけの人なら呼びたいときに呼べばよくて、皆のために毎日居てもらう必要はないんです。

 

この辺りまでで、生徒とスタッフの立場の違いを分かっていただけたでしょうか。

 

僕はスタッフとして雇われる以上、今後5年10年を見据えてサドベリーを成り立たせていけるよう、日常のサポートや学校運営に関する提案をしていきたいと思っています。ということをスタッフ選挙前の立候補プレゼンで言います。

 

サドベリーは「大人は何もしない」と言われますが、僕は提案をします。生徒一人ひとりに「君は将来のためにこれは習っておいた方がいいよ」なんてアホなことはしませんが、スクールの予算にみんなが興味を持たないうちに赤字になって潰れるのを黙って見てるようなアホなこともしません。

 

大人も子どもも楽しむ。というスタイルもありだと思いますが、サドベリーは違います。生徒が楽しむ(学ぶ)ためにスクールは存在し、そのスクール環境をより良く充実させていくためにスタッフは存在するのです。

 

ですので、継続的にサドベリーの文化が引き継がれるように人を集めるための広報イベントを提案したり、赤字になって潰れないように予算も提案します。むしろ、スクールの環境を充実させていくために自分が必要だと思ったら出し惜しみはしません。

 

僕はサドベリーのスタッフを今後も続けたいので、八ヶ岳サドベリーに雇われる限りは八ヶ岳で続けていきますが、最終的には、サドベリーに通いたい子とサドベリーを作りたい人のところに、僕が行けばサドベリーが成り立つ状態を目指しています。

 

おわり。

 

サドベリーでは「絶望」すら学びでした。

 

 

こんにちは。

サドベリースクール元生徒のスーザン (@HunterSussan) です。

 

遊びと学びがイコールとされるサドベリーですが、人間はつい目の前の物事に優劣を感じてしまう生き物です。

TVゲームに何年間も没頭している子と、夢に向かって元気ハツラツ一直線に頑張っている子と、人付き合いが苦手で他人に常に嫌なことを言う子と、受験勉強を1日何時間もみっちりやっている子と、はたまた何もしていない子と、日々悩み迷い苦しんでいる子と、色んな人がいて、すごいな!エライ!と思ったり理解できない…無駄だ…と思ったりします。

 

全部、自分にはそう見えているだけで本人が何を思って何を学んでいるかは定かではないのに、つい優劣を感じて自分の主観を大きくしてこの人はこうなんだと決め付けてしまいます。

 

僕は基本的にひねくれているというかネガティブに考える人なので、自信があるかないかでいうとない方だと思います。

何事もまず、興味がある・やりたいと思っても経験がないからやれる根拠がない、根拠のない自信を持つなんてバカだろうと考えます。どうせモテない。就職できない。コレやってみたいけど自分にはできない。女の子が僕に関心を寄せているはずがない。と。

それからもっとよくよく考えると、自信が持てないということにも同じように根拠がないことに気が付いて、やってみなければ絶対的に分かり得ない絶望に至るという感じでサドベリー生徒時代は色々なことを考えていました。今も自分ではひねくれていると思っています。

 

僕にとってはこの、「絶望に至る」ということが非常に肝要でした。

スクールのルールを作りたければミーティングに出してみんなを説得する必要があります。誰かの提案に反対したければ理由を説明して理解してもらう必要があります。これは実際の社会もそうだと思います。やりたい・嫌だと思うことは山ほどありますが、こだわりたいから具体的に行動するときと、よくよく考えたらまぁどっちでもいいかと何もしないときがありました。

僕は元々気持ちを言葉にしたり具体化することが上手ではなく、何事もまずひねくれて見るのであまり言いたいことはすぐには言えません。好きなことを何でも選べる中で考えることに多くの時間を費やしながら、すべてが自分しだいだと悟ることで、自分の自由には同じだけの責任が伴うことを理解できました。

 

絶望回帰論とでもいいましょうか。

この自分と向き合うという作業をはたから見ると醜いように見えたかもしれません。以前ブログで書いた「かずまくん事件」然り、モテたいから(女子に限らずですが)とカッコつけて結果的にキモくなって本末転倒する女子キモイ病然り。

 

結論としては、サドベリースクールの理念の中にある「評価をしない」ことがこの学びを生んでいたんだろうなと僕は解釈しています。

親にはもちろん何も言われないしスクールの中は常にフラットな状態で、ふと何かを成功・失敗と捉えたり、善い悪いと思うことがあってもそれはそのときの自分が思っただけで普遍的なものではないのです。

 

もう一つたとえばなしをすると、嫉妬ってありますよね。僕は今の彼女が大好きで自分でいうのもあれですがかなり仲が良く他の人など眼中にないです。それでも嫉妬をすることもあるし未来永劫浮気をしない確証などありません。

ただ、彼女が僕以外の人と会うのは当然本人の権利ですし、浮気をするのも不倫をしても本人の自由やからしたらダメって言う方がオカシイやん。みないなことを普段から話しています。この嫉妬心も、掘り下げてよくよく考えると面白いです。浮気を許せないと思ったらそれが何でなのかを考えるべきタイミングなんです。

 

希望、志望、願望、熱望、要望、切望、想望、羨望、渇望、欲望…望むことすべてを掘り下げて絶望することで、フラットに絶望回帰することができるんです。目を背けて遠ざけても無いことにはならず自分の中に在り続けるものだから、よくよく知ってみるのが一番なんです。

 

学び方は人それぞれですが、思う存分自分に絶望できたことが、僕にとっては肝要でありもはや楽しくもある学びでした。

 

 

 

サドベリーを取り入れるのは不可能だと思います。

 
 
サドベリーに関心があるみなさんへ。
 
サドベリースクールを取り入れるのは僕は不可能だと思います。子どもを100%信頼してないとダメだからです。子ども主体の学校で、99%は信頼しています。でもここは大人が決めてます。があったら取り入れたことにはならないと思います。
 
100%かそれ以外しかないと思っています。
 
ただ、誤解しないでほしいのは、ダメなサドベリースクールが存在してはならないとは僕は言ったことはないし誰にも言えないです。ダメなところでも集まる子達が適当に使ってますから、一人ひとりの使い方までは誰にも評価できないんです。
 
それでも僕はしっかりしてないなと思う部分は言った方がいいと思ってるから言います。「思った」時点で自分が関わってるわけだからその責任があります。言わないことも選択できるけど、思ったことや違和感を正直に言うということは人類にとって非常に重要な営みだと思っているからです。
 
何がよいとかではなく単純に「サドベリー」という名前を使わなければいいだけです。
 
たとえば、「自分達の学校の理念は、子ども主体で時間割やテストはありません。日常のルールは子どもも大人も対等な1票を持って決めます。活動の提案をスタッフもします。学校運営は大人が責任を持ってやります。子どもが気持ちよく過ごせるように環境を整えるのは大人です。」とかでいいんじゃないかと思います。名前は自分達が好きなものにしたら楽しいと思います。サドベリーなんてよく知らないものなんかではなく。
 
そもそも、「子ども主体、時間割なし、一方的に評価しない、子どもと大人が対等。」等という理念はなにもサドベリーだけの専売特許ではありません。僕は人類が共通して普遍的に持つことができる精神だと思います。男女が同じ権利を有することができるべきだと思う人が増えているように、大人子どもが同じ権利を持つべきだと思う人は増えていると思います。
 
ようは、取り入れるとか取り入れないとかが要らないのだと思います。既に完成しているところからヒントを得るという行動は、方法論が先行したり強い原理主義に陥りがちです
 
純粋に、そのときにいる人達でいいと思うことをしたらいいと思います。そして、もしサドベリーにしたい・100%を目指したいなら、僕も永遠に学びの途上だと思っているのでぜひご一緒させてもらいたいです。