サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

子どもの学びは数えきれない。

こんにちは。スーザン(@HunterSussan)です。

 

先日「学力とは学ぶ力である」という記事を書きましたが、それでは次に「学びとは何なのか?」ということを書いてみたいと思います。

 

「自ら進んで勉強するようになるんですか?」ということサドベリーのことを聞いた人や見学の人によく聞かれます。何か聞いてくれたときは僕はそこに問いを立てるチャンスだと思うので「勉強って何?学びって何?」という話をしたりします。

 

勉強、学習、というと主に小中学校や塾などで行われる机に座った授業形式のものや、それに伴う自習などがイメージされるでしょうか。

 

「学力」の記事と同じことを言いますが、勉強や学びは大人には存在しないものでしょうか?そうではありませんね。学力のときより分かりやすく、大人も勉強したり学ぶことはあることはお分かりいただけるかと思います。

 

ここで仮に、「大人・子ども」の区別を一旦無くしてみるとします。一人の人間として考えると、他人の行為に対して「あの人は勉強してるからよく学んでいる」とか「この人は遊んでいるから何も学んでいない」と一方的な善し悪しを決め付けることはできないはずです。自分の中だけではそう解釈したとしても相手にそのまま押し付けることはできないです。

 

具体的な例えをいくつか出します。

「小さい頃から遊びのつもりでゲームをやってきたことが大人になってから仕事にできて、あの頃の経験が学びになっていたと気付いた。」

「皆でサッカーをしている中、一人は本気でプロを目指しているからどんな練習もプロになるための勉強だと思っている。一人は皆でやるのが楽しいだけで遊びでやっている。」

「歴史に興味を持った子が本を読み漁ってるのを見た周りの大人が、とてもよく勉強しているじゃない♪と解釈しているが本人は遊び感覚で楽しくどんどん読み進めてる。」

 

3つ出してみましたが、今と未来で理解が変わることがあったり、隣で同じことをしていても人によって全く違った心持ちだったり、本人の気持ちと他人の解釈が異なっていたり、、、いくつかの要因があることが分かりますが、勉強、遊び、学び、と一言で判断しきれないほど、色んな角度から見た理解と解釈があります。

 

ここで僕の現時点での答えを書きますが「学び=経験」と考えます。

 

ここでの経験には、ゲームや教科学習、スポーツや音楽、会話してたりぼーっとしたり等の何かを経験してるときや、何もしてなくても「何もしない」という経験を経ているということで、人生のすべてを含みます。

 

経験=学びとすると、人間には「今この瞬間は何も経験していません」という時間は存在しないと思うので(悩んでるときは悩みを経験しているし、寝てるときは睡眠を経験してるみたいな)、「何も学んでいない」ということは有り得ないということになります。

 

理屈っぽくなってきた気がしますが、人は楽しんだり悲しんだり、喜んだり憤ったり、上手くいったりいかなかったりして、経験したことのすべてを糧にしてその後に活かしたり活かさなかったりするのが人生であると思います。

 

まとめると、どんな経験も糧にできる可能性がある以上「経験=学び」で「学んでいる=生きている」なのです。タイトルではあえて「子どもの」と書きましたが、大人の学びも全く同じですね。

 

ここまで考えていると、小中学校などで行われている教科の学習はごくごく限られた観点での勉強であることが分かります。ゲームをやりまくるのと同じく、無数にある人間の、もはや学びというのが相応しいかも分からない営みの中のたった一つの出来事です。

 

何事も、人によって価値があるかもしれないし、ないかもしれない。その価値を評価するのは、他でもない、本人がすべきことではないでしょうか。

 

 

おわり。

 

 

「学力」とは?

こんにちは。スーザン(@HunterSussan) です。

 

「学力の高い国は素晴らしいから真似をしよう」「学力UP!学力向上!」と言われているのを見て思ったことがあります。

 

「学力」ってなんなんでしょう。一般的には「学力≒テストの点数(偏差値)」というイメージなのでしょうか。「社会人の学力が…」という言い方はあまり聞きませんから、学生時分の人にしか使われないような言葉のように思いますし、主に小中学校内において必要とされる「知的適応能力」、私学や高校大学等に進学する際の「受験合格能力」とでも言いましょうか。

 

これは近代すべての子どもが学力を身に付けられる環境を保証しようと学校という形で作られてきた狭義の学力ですね。テストという狭義的な方法で学力が付いているかを試せはしても、文字が書けるとか、計算ができるとか、それは至極限られた観点であると思います。その結果だけで学力が高い・低いって決め付けて喜んだり憂いたりして子どもを上げ下げするのは非常に短絡的です。

 

どんな学力が必要なのか、は個人によって当然異なりますし、主体性や自律性、感受性や協調性などの「学校から与えられていない当人が生まれ持ったもの」は細く評価・測定することができないものです。学校どころか誰にも推し量れません。

 

 

もっと根本的な学力とは、人間が活動する上での「基礎≒学ぶ力」ではないでしょうか。自分に必要なこと・社会に必要とされることを学べる「必要な経験を積める力」でもありますし、受験勉強をするときや趣味の練習をするとき、友達と仲良くなるために遊ぶときにも使うものです。

 

そもそも、学力を付けるべきなのか?という疑問が湧きますが、何をしていても自己の経験によって人間の基礎が作られることを考えると、僕たちは「学び方を学んで学力が付いた時点から学べている」のではなく「学びながら学び方を学んでいる」ということになります。

 

そうシンプルに考えると、人間は好きなことをやり続けていれば好きなことができる学力が付きますし、嫌なことをやり続けていれば嫌なことをやれる学力が付きます。

 

たとえば、自分がやりたいことを探して学べる力、他人に言われるがままに学べる力、自分が納得するまで妥協しない力、他人の指示を疑わずに働ける力、とかとか。経験を積めば積むほどにその方向性における「学力」が自然と身に付いていくと思います。

 

もはやこれを「学力」と呼ぶことが相応しいのか分からなくなってきましたが、逆にどんな経験をして生きてても無駄にするか活かすかも含めて糧になる。という前提で広義で考えると「学力がない」という状況は有り得ないと思います。

 

そして、国としても「どんな学力をどこまでどのように付けるべきか」はある程度方向性は掲げつつもやはり個人の裁量、最終的には人権、に委ねているので、教育機会提供の義務を果たすまでで強制連行的なまでの一律付与はしていないんですね。

 

まとめると、どんな学力が身に付いてもいいんですが、好きなことをやり続けて好きなことができる学力を身に付けられるサドベリースクール、デモクラティックスクールはいいな!と思いますし、嫌なことをやり続けて嫌なことをやれる学力を付けるのを選ぶにしても、やはりここは、本人が自分で自分に納得して認めているかどうかでしょう。

 

 

おわり。

 

日本のサドベリーのパラドクスについて。

 

サドベリーのパラドクスを見つけました。

上手くはまとまっていないんですが書きます。

 

子どもに「自由な場を作る」という意識でやってるスクールなり大人の人は、「世の中は不自由だから」という前提を暗に作っているのではないかと推察します。それにより目的が「不自由から自由になること」が第一となると、世の中に不自由を感じている人が集まるんです。日本が「民主的じゃないから民主的な場を作る」もそう。

不自由を感じている人というのは、もっと本質的には「不自由を感じていたい人」なんだと思うから、自由になるとそれが怖くてまた何らかの枷を探します。実はそれらの民主主義が嫌いな人が集まってしまっていて、そうするとサドベリーの要であるスクールミーティングが成り立たちません。フラットに話し合うことに抵抗が少なからずあるからです。

もうちょっと主観的な感じでいうと「世の中って不自由だなぁ、サドベリー入ってみよ、へぇー自由じゃん、でも責任負うのはめんどくさいから不自由でいいや。」で自由を避けていくんです。

 

とにかく、自分が不自由だから自由を求めているような人が集まる場になっていると「解放」という意味での自由が強くなります。自分だけがやりたい放題できればいいけど、サドベリーでは自分だけの自由(好き勝手)は意外とすぐに終わるので、それができなくてもどかしい日々を過ごすだけになります。

無論そういう人がサドベリーに向いていない、と決め付けることもできません。一人ひとりが多様であるからには当然色んな人がいます。それが多すぎたり偏りすぎると、場のフラットさが保たれなくてぐらぐらするんだと思うんです。

 

元から自由に生きていて、さらに自分のやりたいことを追求したい(とにかく遊びまくりたい、やりたいことがないから考えたいとかも含め)ような人がサドベリーには最も向いているのではないでしょうか。「世の中は不自由だ」と思っている人にとっては深いところで最も厳しい環境になってしまっているのかもしれません。

本当は「自由である」と思うのも「不自由だ」と思うのもフラットであるべきなのがサドベリーだと僕は理解しているので、不自由や民主的でないのがよろしくないなどという前提を作るということは、「子どもに対して自由や民主主義を押し付けている」のであります。

 

それが、サドベリーのパラドクスです。特に昨今の「サドベリーを作りたい!いぇーい!」とテンションが上がる大人を見て…よくよく思います。

 

社会でできなかったことをサドベリーでやろうとするからパラドクスに陥る。それは、サドベリー=社会だからなんです。

 

 

おわり。

 

 

「学校行かなければならない」は「天動説」と同じ。

 

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

先週色々考えていたときに出てきた例えが面白かったので、少し掘り下げてみます。

 

「学校へ行かなれければならない。」と言う人、思っている人がいてますね。これは、「天動説」と同じなのではないかと思いました。何が同じかというと、自分が見ている世界がすべてだと思い込んでいるところです。そして、自分の知らない世界があるかどうかには目を向けず、場合によってはその価値観を他人に押し付けてしまうことがあると思います。

 

「親の言うことにはいつ如何なる場合でも従わなくてはいけない。」

「地球は平らであるから水平線の先へはいけない。どこかへ落ちて死んでしまう。」

「すべての子どもが自分に合った教育・学校を選ばなければならない。」

「規律に束縛される公立校よりも、フリースクールの方が望ましい。」

「サドベリー教育など、子どもにとって自由は最高の教育である。」

「(サドベリーでは)大人は提案してはならない。退屈のプールに浸けるのが善い。」

 

たとえばこういうことを「自分」が思ったり確信するのは自由ですが、「他人」に押し付けてはいけません。価値観が違うと共感し得ない可能性があるからです。

さらに、それぞれの価値観は科学的にも物理的にも誰しもが納得するほどの根拠がないと思うので、ある視点から考えれば「大いに間違っている」ともいえるのですが、間違っているのが「悪」でもありません。

その人がそう思うのには何らかの理由があるはずです。そこにある価値観に目を向けずに「天動説は間違っている、この時代に何を言ってるんだ。」と言い放つのは、それも同じく価値観の押し付けにあたると考えます。

 

すべてにおいて、相手の価値観がそうなのであれば、根本的には、尊重しないということができません。どれだけその解釈が見当違いであっても、相手がそう解釈したことは事実だからです。その解釈を信じるに至る経緯が必ずあります。

必要であれば、「僕は地球が動いていて、しかも球体状なんだという新発見とその根拠を知ってるんだけど聞いてくれる?」とか、「学校ね、行かなくても好きなことだけやってても、自分の望んだ人生送ってる大人を知ってるよ。あと、学校といっても法律が変わってきていたり、選択肢が広がってきてるところもあるんだよ。」とか、提案してみることは自由にできるので、したければしたらいいと思います。

 

僕は、サドベリーってのがありまして…という会話はしてみますが、理解し合える部分とし合えない部分が誰とでもあるので、そのときの自分が話せる・話したいことを出し切ったら、あとは相手しだいですし「天動説」のように「学校行かなければならない」を引き続き信じるのであれば、「来世で会いましょう~」と思います。

 

すべては「会話力」だと思います。これからも頑張りたいです。

 

 

生徒とスタッフの違い。

 

こんにちは。スーザン(@HunterSussan) です。

 

現在僕はサドベリーのスタッフ5年目になりますが、6年の生徒時代と比べて何が違うのかを書いてみようと思います。

 

カリキュラムは課されていない。どう思いどう動くかは自由。ミーティングでは1票の権利。学校運営には対等に意見を出せる。年上は偉い・年下は稚拙ということはない。何をしても何もしなくても評価されないけど、自分がしたことはすべて自分にかえり、日々の何事も学びとなり得る。 

 

このあたりは同じで保護者もほぼ同じですが加えて「活動には関与できない」 ということだと思います。同じことが多いように思われますが、僕は生徒とスタッフをやってみて、立場による必然的な特性の違いが大きいと感じています。

 

僕は生徒のときは主に、自分の人生をどうしていこうか。という視点でスクールに通っていたと思います。自分の好きなことをしたり悩みに悩んだり。その中で必要に応じて、人を増やしたいなら広報活動のことを考えたり、スクールが赤字になってつぶれるのが嫌なら予算を鑑みて不要な部分を添削したり。

 

これもどこまでどのようにするかも自由なので、例えば自らスクールの代表になってイベントをやったり広報活動に励んだ子もいましたが、広報に関しては僕はあまり関与していなかったと思います。スクールを存続させることよりもどうしたら自分が自由に活動できるのか。が主だったんです。

 

今度は、スタッフとしてどう動くべきか、という視点で考えてみます。前述の通りカリキュラムは課されていないので、本当にどう動くかは自由です。仕事をすることもしないこともできます。そもそも、サドベリースタッフは何が仕事なのかすら決まっていませんから。

 

一方で「生徒がスタッフを選ぶ」という前提で総括してみると、どうでしょうか。誰かに言われないと何も動かないスタッフと、自分から仕事を作ったりスクールの改善案を出してくるスタッフがいたとしたら。生徒が自分だけの好き・嫌いだけでスタッフを選ぶこともできますが、生徒の活動のサポートが満足できる人、広報戦略に長けた人、ミーティングでの話し合いが上手い人等、自分は好きでも嫌いでもスクールに必要な人をクビにしてスクールが潰れてしまうリスクも背負って考えなければなりません。

 

その結果としては、総合的な学校運営に必要なスタッフが選ばれるのは当然のことです。僕も生徒時代は自分が好きかどうかとこのスクールに必要な人材かどうかは完全に分けて考えていました。自分だけが好きなだけの人なら呼びたいときに呼べばよくて、皆のために毎日居てもらう必要はないんです。

 

この辺りまでで、生徒とスタッフの立場の違いを分かっていただけたでしょうか。

 

僕はスタッフとして雇われる以上、今後5年10年を見据えてサドベリーを成り立たせていけるよう、日常のサポートや学校運営に関する提案をしていきたいと思っています。ということをスタッフ選挙前の立候補プレゼンで言います。

 

サドベリーは「大人は何もしない」と言われますが、僕は提案をします。生徒一人ひとりに「君は将来のためにこれは習っておいた方がいいよ」なんてアホなことはしませんが、スクールの予算にみんなが興味を持たないうちに赤字になって潰れるのを黙って見てるようなアホなこともしません。

 

大人も子どもも楽しむ。というスタイルもありだと思いますが、サドベリーは違います。生徒が楽しむ(学ぶ)ためにスクールは存在し、そのスクール環境をより良く充実させていくためにスタッフは存在するのです。

 

ですので、継続的にサドベリーの文化が引き継がれるように人を集めるための広報イベントを提案したり、赤字になって潰れないように予算も提案します。むしろ、スクールの環境を充実させていくために自分が必要だと思ったら出し惜しみはしません。

 

僕はサドベリーのスタッフを今後も続けたいので、八ヶ岳サドベリーに雇われる限りは八ヶ岳で続けていきますが、最終的には、サドベリーに通いたい子とサドベリーを作りたい人のところに、僕が行けばサドベリーが成り立つ状態を目指しています。

 

おわり。