サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

毎年各地のスクールを巡って思うこと。

今年で4回目になる「全国サドベリーツアー」が終わりました。

 

ツアーで訪問させてもらったり、仕事の関係や個人的にも各地のスクールを訪れることが多い僕ですが、今思っていることをまとめておきます。

 

各々のスクールが同じような理念で運営されていて、「ミーティングがあります。ルールはみんなで決めます。一人一票の権利があります。」などと、大枠はほとんど全く同じシステムなのですが、集まる人によって本当に全然雰囲気が面白いほど違います。違いすぎます。ですので一つや二つのスクールを見たり聞いたりしたくらいで「これがサドベリー、デモクラティックスクールか!」と理解した気になるのは時期尚早と思います。

 

それぞれのスクールが違っていいね!というよりは、人によっては明らかに面白いスクールと面白くないスクールと分けられちゃうような、上位互換になってると思うので、正直なところ同じ名前でも同じスクールとは思ってほしくないくらいです!ただの個人的な感想ですが。笑

 

では何が違うのか。スクールの校舎の大小、所在地が都会だったり田舎だったり、設備や備品が整っているか、スタッフや生徒の年齢性別の割合、そんなことは一長一短、皆で自由に決めれば何だっていいことです。

 

他のスクールを訪問させてもらうと、いつも色んな疑問や違和感を抱きます。これが少ないスクール、誰の目にも分かりやすいスクールほどに成熟度が高いなと思うのですが、「なぜこんなルールがあるのか?ミーティング決定の根拠が浅はかではないか?さっきのスタッフの在り方は本当によいのか?」など思うことがあります。

 

これ自体はむしろ良いことで、色んな視点から見て分かりやすいスクールにするために、より良くできる可能性、改善点を見つけたとも言えるからです。それに他のスクールを見ることで、自分が今いるスクールに活かせることも多々あるので僕もそうですが、正しい批判は本来歓迎すべきことなのです。

 

ここでひとつの説を立てたいと思います。「サドベリースクール、デモクラティックスクールの質の高低は、普段の会話、公式な議論(ミーティング)の質によって決まる。」

 

僕が多少の疑問や違和感を抱くくらいなら僕がおかしいだけの可能性も大いにあるのでそんなに問題ではないのですが、何度も見させてもらっていると、正直なところいち場面にすぎませんが、ミーティングが成り立っていない、日常会話がうわべなので本音が言いにくい、状況が生まれているところもあるなと思います。ルールが決まっているのに守らない、守らない人を見ても黙殺する。という場面も見ました。

 

公式なミーティングで必要だから決めたルールを守らない、ルールの存在そのものを無視するという私的行為を許してしまうのは、「ルールで決まっているけど今いるメンバーが良ければそれでいい。」ということ。これは公私混同で、民主主義を履き違えているのではと思います。

 

ただ、デモクラティックスクールの良さは、いつなんどきでも、より良くすることができることです。問題があれば改善できる。一つの不自由を見つけたその時は不快感やめんどくささがあっても、それを自由にできればより多くの自由を保証できるということです。

 

これだけ各地のスクールにお邪魔させてもらっているので、よくも悪くも表も裏も知りつつあるので、せっかくなので各スクールがより良くなったり自分にも活かせるように色んな意見交換をしていきたいです。

 

みんな違ってみんないいとか、正しい・間違いは無いとか言うのは簡単ですが、どちらかの方がより良い可能性は?組み合わせてまた違う案は生まれないか?そもそも本当に違うのか?ということをきっちり話し合い理解し合ってこそ言えることなはずです。その会話を疎かにしている人は、互いを認め合うというよりは、核心に触れないようにしてるだけかなって思います。

 

ミーティングの分かりやすさもそうだし、普段の会話からちゃんと言いたいことが言えているかどうか。抽象的ですがスクールの日常を見れば分かります。外部の人にも雰囲気は伝わります。

 

この社会が良いか悪いかはおいといて、どんな環境でも自己主張をできる人間になれるのが、デモクラティックスクールの良さだと思うので、せっかく通うなら形だけの自由じゃなくて本当の自分を生きる経験を積んでもらいたいです。

 

ちなみに人づてですが、ボストンのサドベリーバレーには「ルール違反を目撃したら注意する義務」「注意を守らなければミーティングに報告する義務」があるといいます。これは自分の自由&責任だけでなく場の自治にも全員が責任を持って関わるということ。仮に、各地のスクールを一人の人として考えて、日本の「デモクラティックスクールネット」一つのスクールとして考えるとする。そうすると、ちゃんとサドベリーやってないスクールには注意する義務があるし、守らなければミーティングに報告する義務がある。そこまでいくと質も上がるよなぁ。

 

書いていたら延々続きますねこれは。本当に奥が深いなと思うので、サドベリースクール、デモクラティックスクールに関心がある方はぜひ僕とこんこんと語りましょう~。

サドベリーの保護者は素晴らしい。

こんにちは。スーザンです。

 

2年ちょっと前に働き詰めで半分病みながら開設したこのブログも、今回で100記事を数えました。最初の目的であった「サドベリー・デモクラティックスクール卒業生たちの紹介記事」は10記事ほどしかありませんが、、、言論の自由があるので許してください。もしリクエストがあれば卒業生たちの皆も書いてくれると思います。

 

いつも記事を書こうとして内容を考えているわけではなく、ふと内容が思い付いたら記事にしているのですが、今回は、サドベリーの保護者について書こうと思います。

 

子どもの自由と責任、人間としての権利を100%尊重し、何をしてもしてなくても善悪優劣と評価することなく信頼するサドベリーでは、保護者の協力が不可欠といえます。サドベリーは通うか通わないかを生徒自身が決めることが前提ですが、極論、親が学費を強制的に出さないこともできる以上、親の同意と、同意に至るまでの理解がなくてはならないものです。(一部、自ら働いて稼ぎながら学費を払って通う生徒もいます。)

 

たとえば、サドベリーでは完全に一人の人として扱われているのに、家では一方的に言動を規制されたりしていると、同時に2つの矛盾した環境に身を置いている状態なので、学びも半減どころかほとんど無くなってしまうかもしれません。ただし、学校と家の方針を完璧に合わせろというのも無理な話です。集まった人が違うのでそこにいる人で話し合えばいいんです。

 

僕個人的には、保護者の方がサドベリーを完全に理解する必要はないと思ってます。というか、無理に理解するべきものではないと思ってます。もちろん自ら理解したいと思えば理解できるんですが、子どもが新たな世界に踏み出していくその先はサドベリーだけではないので、子どもの人生すべてを親が理解するのは到底不可能だということです。

ポイントは子どもの選択を尊重して応援できるかだけです。我が子がプロボクサーになると言ったらその道を尊重するけどボクシングのことを理解する必要まではないという感じです。我が子がどうしてもこの人と結婚したいんだと言ったらその選択は尊重するけど相手のことを理解する必要まではないという感じです。

 

ただ、この「子どもを一人の人として尊重する」ということが頭では分かっていると思っているとしても、実際はとても難しいようです。やはり知ってか知らずか子どもの自由と責任を犯している大人は多いです。

僕には子どもがいたことがないので親の気持ちは分からないし、自分に子どもができたらあったりまえに尊重できるだろうと思い上がっているので、今まさに子育て中の親御さんの気持ちは本当によく分かりません。良かれと思って自由と責任を侵害する大人には全く共感できません。

それでも常になんでかなって考えてて、なぜ難しいのか、そのメカニズムは理解しているつもりです。

 

それは、自分の人生には起こらなかったこと(忘れていること)を日々子どもが起こしていくからです。生まれたての赤ちゃんのときは親から離れてしまうと生きていけない一心同体であった我が子が、徐々に、驚くほどの速度で、親の価値観の外にある言動をとっていくからです。

歩けるようになって自分の好きな場所へ行こうとしたり、友達ができて親以外の人間関係が主になっていったり、学校へ行って親の知らないことを学んでいたり、就職をして親に頼らず生きていくようになったり、結婚して親の価値観には合わない人と暮らしを共にしたり、、、子は親の知らないところで価値観や在り方を形成していきます。

僕はこれを、「産みの苦しみ」なんじゃないかと想像しています。男なので産めないのでたぶん永遠に想像しかできないんですが、子どもが新しい世界を手に入れる度に、親は自分の価値観外のことをする子を受け入れる苦しみ、子は親の価値観内から離れる痛みが伴うんだと想像します。

 

それでも、試行錯誤しながら子どもと向き合い、真に自分と向き合っていながら子どもを信頼・尊重している親御さんの姿勢は本当に素晴らしいと思います。僕の親に至っては、サドベリーにはそんなに興味がない(父は一切知らないくらい)けど子どもが通うと宣言したならそれを尊重してくれました。

 

そんな保護者の方々がいてくれるおかげで、生徒となる子ども達は最っ高に楽しい学校生活を送ることができるのです。

 

 向き合うことをやめなければ、必ず道は拓けます。

 

生徒が本気でも、スタッフが気付かないとついていけない。

こんにちは。スーザンです。

 

今回は、スクールミーティングについて生徒視点とスタッフ視点を織り交ぜながら書いてみます。

 

僕が生徒の時は「何かやりたいこと、嫌なことがあればスクールミーティングで話し合えば必ず問題解決ができる」という絶対的なスクールへの信頼がありました。ここ重要。スタッフ個人への信頼ではなく、スクール全体への信頼です。

 

スクールは生徒とスタッフで作るものなので、言い換えれば「生徒とスタッフで構成されるスクールに絶対的な信頼があった」ということですが、僕らの時は生徒4人にスタッフ1人とかなので、かなり個人に責任が委ねられてきますね。

 

ここで誰かがミーティングで話したいことがあったりルールを決めたいことがあっても、他の人が話し合う気がないとミーティング自体が成り立たなくなります。

 

スタッフも万能ではないので、出来ないことやイラついてるときもあるのですが、僕が生徒時代に雇っていたスタッフには、全幅の信頼を置いてました。

 

これは「人として」とかではなく「スタッフとして」です。人間としては尊敬できない面も多々あるけれども、スタッフとして自分達のサポートが満足できるものであれば何の問題もありません。個人間の信頼関係も要りません。

 

ミーティングの場が常に開かれていて、そこで言えば何だって決められるよと。そういう意識が僕は常にありました。一人ひとりがスクールを信頼できていればいいのです。自分が学ぶ学校のことを信頼できているって、とてもいいことだと思います。

 

これがサドベリーには必須かと思うのですが、たとえば、理解が浅いスタッフやそもそも喋るのが好きじゃないスタッフ、スクールとは別のことで忙しかったり、疲れてて集中できてないスタッフとかだと、そもそもの話し合いが行えない状態になり得るんじゃないかなと思います。

 

スタッフをちゃんと生徒が選べていれば、生徒側も「こんな(良い・よくない)スタッフを雇ったのは我々だ」という責任を自負してるので問題はないですが、状況も常に移り変わる中でスタッフが即座に反応できないときもあって、それを生徒が察して「あえて言わないでおく」という忖度をしてる可能性もあるなと思っています。まぁ自分さえ好きにできればスクールのことは別にいいやと。

 

それが蔓延すると、「言いたいことを言えない雰囲気」が出来上がってしまったりも、、、すると思います。生徒は前提としてやはり通いたくて来てるので生徒の本気度にスタッフが圧倒されてしまうというか、サドベリーの生徒達と本気で話すのって半端な人にはできなくて、それはもう一つの特技だと思います。

 

生徒やスタッフが言いたいことを言うのも、言えない言わないのも本人の責任、ではあるのですが、僕自身にできることとしては、「まず自分がいい・悪いと思ったことをミーティングに提案すること」と「誰でもいつでもミーティングに出せる環境がいいと思うのでその場を維持しようとすること」を欠かさずにスタッフをやっていきたいなと思います。

  

さいごに、生徒側、スタッフ側と分けること自体が間違いであって、ミーティングさえしっかりしてれば、たとえば話のできないスタッフがミーティングに出なくてもそこで話し合えばいいのですが、存在する役割の違いはあるので、生徒は自分が好きなことやるためにスクールにいるとして、スタッフはなぜスクールにいるのか?というところから自分で考えて誇りを持って仕事してほしいなと思います。

 

そんなスタッフの人達が僕は好きです。そこに追い付き追い越せるよう、僕も頑張ります。

 

 

「デモクラ」と「サドベリー」の違いとは。

こんにちは。スーザン(@HunterSussan) です。

「デモクラティックスクールとサドベリースクールの違いは何ですか?」とよく聞かれることが多いです。僕も日本各地のスクールを訪問したりしながらいつも考えていることですが、まとめてみます。

 

  • サドベリースクールとは…
    アメリカにある「サドベリー・バレー・スクール」の理念をモデルにした学校。「サドベリー」は地名なので特に意味は無い。サドベリーを名乗ることは許可制でもないし、アメリカ本校と何の接点も無いスクールもある。まったく異なる理念で運営されているところもあるので注意が必要。
  • デモクラティックスクールとは…
    「民主主義の学校」の総称。こちらも許可制ではないが、一つの理念を呼称するものでもなく、徹底した民主主義のサドベリーのことをこう呼ぶこともあるし、一部民主的に決めている学校や不登校支援のためのフリースクールなど、広義的に「民主的な部分のある学校」ともいえてしまっている。


一言二言でいうとこんな感じでしょうか。まず先に結論からいきます。

僕の理論としては「デモクラティックスクール」≒「サドベリースクール」です。

 

色んな理由がありますが、僕が通っていた「デモクラティックスクール宙(そら)」の名前を「神戸サドベリースクール(現西宮サドベリースクール)」に変えたときに、スクールが何も変わらなかったから。というのが大きいです。名前が変わろうとも一貫してシンプルに「子どもを100%信頼する学校」であり続けています。

 

ただ、デモクラもサドベリーも名前が広まるにつれて、「亜種」みたいなのが出てきています。「カリキュラム提案型」「ゲームお菓子禁止型」「自分の活動は自分で決めるけど運営は大人がする(子どもが関われない話し合いがある)型」などがあります。この辺は全く民主主義ではないので何故デモクラ・サドベリーを名乗るのかも分からない状態です。

さらに傾向としては、「サドベリーだからスクールミーティングがなくてはならない」とサドベリーバレーの形式だけを捉えた原理主義に陥ったり、「デモクラだからサドベリーそこまで徹底しなくていい」と大人がスクールに甘えるなど、自分達が名乗りたいからこの名前を!というよりも、名前に逆に縛られるような使い方をしてるところもあるように思います。

少し話が逸れますが「大人も子どもも楽しみたい」という大義名分で大人が楽しみたいのであれば、「デモクラティックフィールド」「サドベリーエリア」等のコミュニティを作成したらいいです。それは浮世離れ空間にしかならない気がしますけど。

 

サドベリーの考え方が広まること自体はいいことなのですが、個人的にはやるならちゃんとしてほしいです。

 

僕は、サドベリーは子どもを一人の人として100%信頼する学校で、デモクラは民主主義なので子どもの人権を100%尊重する学校で、どちらも子どものためのスクールとする前提であれば、当然スクールの所有権も子どもにあると考えます。

僕の通ってた「宙」が「神戸サドベリー」に改名した理由は、「広報戦略上サドベリーとした方が名前を売っていけるから」という夢もクソもない理由なのですが、「宙」が気に入ってたから気持ち的には変えたくなかったけど、スクールを続けるためには広報が必要だし、色々な検討を重ねて最終的に僕もそれに賛同しました。

 

まとめると、デモクラにせよサドベリーにせよ、きちんとやっているスクールは名前の通りに子どもが100%信頼・尊重されてて成果も出ているし、まだまだ途上のところや迷走してるところ、理念を無視してるところにはあまり意味の無いただの飾りになっているかな~と思います。

どちらでもいいのですが、これから立ち上げる方などは100%を目指すのであれば、まず、「名前を決めるところからすべて生徒に権利がある状態」であることです。

 

デモクラとは?サドベリーとは?と話したり考えているのはとても楽しいですし、一人で考えているだけのことは外に出してみないとあまり価値がないので、こんな話に興味がある人とはぜひ協力し合いたいです。

子どもの学びは数えきれない。

こんにちは。スーザン(@HunterSussan)です。

 

先日「学力とは学ぶ力である」という記事を書きましたが、それでは次に「学びとは何なのか?」ということを書いてみたいと思います。

 

「自ら進んで勉強するようになるんですか?」ということサドベリーのことを聞いた人や見学の人によく聞かれます。何か聞いてくれたときは僕はそこに問いを立てるチャンスだと思うので「勉強って何?学びって何?」という話をしたりします。

 

勉強、学習、というと主に小中学校や塾などで行われる机に座った授業形式のものや、それに伴う自習などがイメージされるでしょうか。

 

「学力」の記事と同じことを言いますが、勉強や学びは大人には存在しないものでしょうか?そうではありませんね。学力のときより分かりやすく、大人も勉強したり学ぶことはあることはお分かりいただけるかと思います。

 

ここで仮に、「大人・子ども」の区別を一旦無くしてみるとします。一人の人間として考えると、他人の行為に対して「あの人は勉強してるからよく学んでいる」とか「この人は遊んでいるから何も学んでいない」と一方的な善し悪しを決め付けることはできないはずです。自分の中だけではそう解釈したとしても相手にそのまま押し付けることはできないです。

 

具体的な例えをいくつか出します。

「小さい頃から遊びのつもりでゲームをやってきたことが大人になってから仕事にできて、あの頃の経験が学びになっていたと気付いた。」

「皆でサッカーをしている中、一人は本気でプロを目指しているからどんな練習もプロになるための勉強だと思っている。一人は皆でやるのが楽しいだけで遊びでやっている。」

「歴史に興味を持った子が本を読み漁ってるのを見た周りの大人が、とてもよく勉強しているじゃない♪と解釈しているが本人は遊び感覚で楽しくどんどん読み進めてる。」

 

3つ出してみましたが、今と未来で理解が変わることがあったり、隣で同じことをしていても人によって全く違った心持ちだったり、本人の気持ちと他人の解釈が異なっていたり、、、いくつかの要因があることが分かりますが、勉強、遊び、学び、と一言で判断しきれないほど、色んな角度から見た理解と解釈があります。

 

ここで僕の現時点での答えを書きますが「学び=経験」と考えます。

 

ここでの経験には、ゲームや教科学習、スポーツや音楽、会話してたりぼーっとしたり等の何かを経験してるときや、何もしてなくても「何もしない」という経験を経ているということで、人生のすべてを含みます。

 

経験=学びとすると、人間には「今この瞬間は何も経験していません」という時間は存在しないと思うので(悩んでるときは悩みを経験しているし、寝てるときは睡眠を経験してるみたいな)、「何も学んでいない」ということは有り得ないということになります。

 

理屈っぽくなってきた気がしますが、人は楽しんだり悲しんだり、喜んだり憤ったり、上手くいったりいかなかったりして、経験したことのすべてを糧にしてその後に活かしたり活かさなかったりするのが人生であると思います。

 

まとめると、どんな経験も糧にできる可能性がある以上「経験=学び」で「学んでいる=生きている」なのです。タイトルではあえて「子どもの」と書きましたが、大人の学びも全く同じですね。

 

ここまで考えていると、小中学校などで行われている教科の学習はごくごく限られた観点での勉強であることが分かります。ゲームをやりまくるのと同じく、無数にある人間の、もはや学びというのが相応しいかも分からない営みの中のたった一つの出来事です。

 

何事も、人によって価値があるかもしれないし、ないかもしれない。その価値を評価するのは、他でもない、本人がすべきことではないでしょうか。

 

 

おわり。