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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

「子どもの頃の記憶」~人として当然の権利~

こんにちは。スーザン (@HunterSussan)  です。

 

連載企画「小学校編」を書いている途中で、別のことが書きたくなったので番外編として書きます。

 

「子どもの頃の記憶」~人として当然の権利~

みなさんは子ども時代の記憶がどれくらいありますか?

楽しかったこと、嬉しかったこと、恥ずかしかったこと、嫌だったこと、辛かった、苦しかったこと。色々ありますね。

僕は小学校ではかなりの優等生(大人に怒られることがないという意味で)だったので、ほとんど怒られたことがありません。そもそも僕の行ってた小学校はかなり平和で良い先生も多かったんじゃないかと思います。

それでも僕は、2年生、4年生、5年生のときの担任の先生にそれぞれ一度だけ怒られたことを鮮明に覚えています。ついさっきの出来事のように覚えています。

2年生の時は、ベルマークの回収日かなんかで、僕が忘れてきたんですね。そしたら「ふざけてんのか?…しっかりせぇ!!」とかなりの剣幕で怒られました。

4年生の時は、先生が忙しくてイライラしていて、日直だった僕が様子を伺っていたら「鈴木!日直やろ!仕事せぇ!!」と八つ当たり気味に怒鳴られました。

5年生の時は、プールに入るのが嫌すぎて(水中で鼻呼吸しちゃって水を飲みまくるから)、頭を掻きむしっていたら皮膚が荒れて皮膚科に【プール入れません証書】を貰ったと話したら「まさか、サボりたいから言うてるんとちゃうやろうな??」と威圧されました。

 

しかし関西弁は聞こえが悪いな…笑

 

全部めちゃめちゃ鮮明に覚えてます。当時はかなりショックを受けましたね。でもこれは一方的に先生が悪いとも、もちろん僕が悪いとも思いません。その人たちもとても良い先生な部分もありました。誰でも忙しい時はあるし、たまたま言っちゃったのかもしれない、たまたま僕が大きく反応しているだけかもしれない、覚えてないけど怒られてたこともあるかもしれない。相性であり、偶然です。

 

だから、一つ一つの出来事に良い・悪いという評価をするつもりもない(できない)んですけど、子どもの人としての当然の権利について、子どもに携わるすべての人に踏まえていただきたいことがあります。

 

家庭でも学校でも会社でもそうなんですが、「誰かが偉いから、従わなければならない」というのは民主主義の国において有り得ないことです。人はこの世に生まれた時から、好きなことを好きだと言い、嫌なことを嫌だと言う、言論の自由を持つ権利があります。行きたい所へ行き、行きたくない所へは行かない、行動の自由を持つ権利があります。

 

これは大人にとっても同じことで、つまりすべての人に、やりたいことをやって、やりたくないことをやらない権利があります。うるさい!黙れ!とか言って黙らせたり、「躾」とし称して手を上げるのは人権侵害なんです。

 

今の社会(学校)は、これらの権利が執行できない状況に溢れているなと感じます。忙しいから、お金・時間がないから、めんどくさいから、これが絶対に正しい(間違いだ)から、どうしたらいいのかわからないから…

だから人が人を否定する権利なんか無いのに否定しちゃったりするんです。自分で自分を否定することなんてできないのに自己否定しちゃったりするんです。意味も分からず否定して、必死に肯定肯定!って言ってセミナーやカウンセリングに足繁く通うんです。

ありとあらゆる思い込みと不安を抱えて、みんな生きているなと感じます。こうでなければならないが交差して重なると、最悪の場合、互いにナイフを突き付け合いながら折り合いを付けて生きている人もいるなとさえ感じます。

 

権利がない状況を作っている責任は、先生だけでも親だけでも、先の世代だけでも今の世代だけでもないと思います。大人だけでもなく、もちろん子どもだけでもありません。言い換えれば、社会全体の一人ひとりに責任(を担って変えていける部分)があると思います。

前述の思い込みや不安は、すべてが人生の中の一要因なので、もういくらでも選び直したり変えたりもできるし、ひしひしと味わったり忘れちゃったりすればいいんです。

 

学校教育に問題があるから変えるとかじゃなくて、生きとし生ける人々みんながそういう意識を持って社会を作っていくことができたら、必然的に学校教育も良くなっていくんじゃないかと僕は思っています。

この子どもの人として当然の権利を、侵害してしまう可能性があるかもしれないし、逆に100%侵害していないということも有り得ないかもしれない。ということを踏まえて、自戒を込めて、これからも携わっていきたいです。

 

 

 

「幼少期」~ほとんどのわがままを受け入れられて育った話~

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

ふと連載企画をしてみたくなったので、僕のほぼ四半世紀になる人生を振り返って、記事を書いてみます。

少し長くなるんですが、こんな育ち方をする人もいるんだということで、読んでくれたら嬉しいです。

 

「幼少期」
~ほとんどのわがままを受け入れられて育った話~

故郷を離れて働いていた両親が千葉県で出会い、初めての子どもとして僕が生まれますが、この頃の両親は非常に仲睦まじく、どんなロマンチックな映画の主人公よりも私達の方が幸せだ。と本気で思っていたそうです。

幸せの絶頂で生まれた僕は、専業主婦の母にずーーーーっと抱っこされて育ちました。覚えてるんじゃなくて聞いた話ですよ。少しでも離れて泣いたらすぐに抱っこしていたそうです。僕はそこから絶大な安心感を得ていたのではないか、この深い愛情が人生の基盤となっているのではないか、と推測してますが、これをやさしさだと捉えるか、甘やかしすぎだと捉えるか、いろんな見方ができるかもしれませんね。

ちなみに3歳のときに唯一の兄弟である弟が生まれます。兄弟で仲良く遊んだり、山に川に海にと本当によく遊びに連れて行ってもらってました。6歳までは親の繭の中でひたすら楽しく遊んでいたように思います。

 

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「森のようちえん・小学部」という考え方について。

 

 

こんにちは。スーザンです。

 

先日、日本全国のデモクラティックスクール、サドベリースクール10校を巡る、「日本全国サドベリースクールツアー」を開催しました!

https://www.facebook.com/sudburytour/

 

その中で訪問した、「新田サドベリースクール」は、森のようちえんから派生して立ち上がった学校でした。

新田サドベリーがどうというよりは、全国的に増えている森のようちえんの可能性について、ダラダラ呟いていたら、ちょっとしたアイデアを思い付いたので、記事にしてみます。

 

僕は森のようちえん自体は好きでも嫌いでもないし、全然詳しくもないです。そもそも、森のようちえんについての話というよりは、新しいタイプの幼稚園・保育園全体的に言える話かもしれません。

 

 

 

 

これ、どうでしょう。幼稚園・保育園って、公民共に色々な方針のところがあるけど、小学校は一気に狭まりますよね。

それぞれの園の方針は、子どもに必要なものは何なのかという観点で色々作られてると思うんですけど、それって6歳以降にも通ずるんじゃないかなって思います。もちろん、そのまんまではなく、8歳なら8歳なりの、10歳なら10歳なりの、ということも要検討でしょうけど。

 

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親は子どもにとって、幸せの灯台みたいなものだ。

 

こんにちは。

スーザンです。 

 

日本全国サドベリーツアー

https://www.facebook.com/events/1816477385238981/?ti=cl

の折り返しに、実家で一休みしています。母とカフェを巡ったり、弟とつけめん食ったり。

 

話は変わりますが、先日、祖父母の金婚式に行ってきました。その席で僕の両親が今年は銀婚式の年であることが判明し、急きょ同時にとり行われました。幸せ満杯の一日でした。

 

親との関係について、思春期は特に色んなゴタゴタもあって、サドベリー行きながら悩みまくっていたんですが、ここ最近、あえて父と母に何で結婚したの?とか、何て言って付き合ったの?とか、色々なことを聞いて自分の生まれた意味を実感し、自分がどのようにしてこの世に生まれたのか、を考えるピースが揃ってきた感じがしています。

 

僕は親から、学校に(サドベリーに)行きなさい、と言われたことがありません。というか、これを必ずしなければならない、これは絶対にしてはならない、と言われた記憶がありません。もっと言うと、指事語や命令形で何かを言われたり、強制(体を引っ張るとか)されたこともあまりない気がします。たぶん、あらゆる可能性を否定されずに育っています。

 

逆に言えば、何も言わずにされずに育っているとも思います。親に育てられた、という感覚はありません。「家庭」という大きな陸地の上で、自分で自分の好きなことをしてきた。という感覚です。親はそこにただ、「灯台」として、存在していた。僕に対してはほとんど何もしていません。灯台は、真下をあまり照らしませんよね。

 

でも、陸地にある様々なものの恩恵により成長していることは間違いないので、大局的には完全に親のおかげで生まれて、ここまで育つことができています。

 

灯台」である親は、何をするわけでもないんですけど、ちょっと遠くへ行ったときは、光を辿って帰ることができて、海へ出てから暗雲や嵐が巻き起ころうとも、決して追ってきたりはせず、“ここに大陸があるぞ”と、その場でぐるぐる廻ったり点滅したりしながら、光を放っています。僕はどこにいるときでも、それを知っています。

 

親が幸せでいる。そこに戻ればいつもいつでも幸せがあると思える。子どもにとって本当に必要なただ一つのことは、それなんだろう。

 

灯台もと暗し』っていう言葉の、もう一つの訳が分かった気がします。

 

おわり。

多様性という思い込みについて。

こんにちは。スーザン (@HunterSussan)  です。

 

サドベリースクールという学校には、こうするべき、こうせざるべき、というものが存在しないので、ときに、人々のあらゆる思い込みが浮き彫りになったりします。

あらゆる出来事が自分に起因しているかもしれないと思える人はいいんですが、浮き彫りになった思い込みと向き合えず、他人に(特に子どもに)投影してしまうと、しんどくなってきます。

 

思い込みが悪いとかではなく、自分が本当にそう思ってるなら全然いいんですけど、何かが悪いからという理由がベースにあると、自分にベースが無くなって、自分の人生なのに誰かの価値観に必要以上に揺さぶられてしまいます。

 

それと、自分の意見を主張するときに、何を批判したり比較するなど他に理由を付けないと言えないというのも、自分にベースが無い感じがします。あなたはそれが好きなんだね。僕はコレが好きだから。でいいのに。

 

不登校の子はかわいそうな存在だから、支援しなければならないとか。

 

フラットに選びたいと言って、公立校もサドベリーもフラットに選ばなければならないとか。

 

自然食が素晴らしいと言って、自然でない食事を受け入れられないとか。

 

多様性が認められるべきだと言って、多様性を認めない人を認められないとか。

 

思い込みを無くさなければならないとか。

 

こうしたい、かもしれない、って言えばそこからいくらでも派生できそうですけど、こうできない、なければならない、って言っちゃうと他に可能性が無い感じになってしまう。本当は言いたいことは同じようなことでも。日本語って不思議だなと思います。

 

どんな思い込みがあっても、なくても、あるがままの自分は自分で存在していることそのものが素晴らしいし、残念ながらどう足掻いても自分は自分でしかありません。

 

自分を見ていて、知っていて、考えている。

 

ということが、何よりも大きな価値だという視点も持ちつつ、向き合っていこう。

 

おわり。