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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

スタッフとはなんたるか。

 

※信じると危険な超主観です。

 

サドベリーのシステム上(僕が思うには)、ルールをその時々に合わせてより良く更新し続けていくように、スタッフ陣営もより良く更新し続けていくために毎年選挙(なり何らかの検討)をするべきだと思います。

 

そう思うと、サドベリースタッフに安定など無い。言い方を変えれば、僕はいつまでもフラフラしている。

 

それを言えば、そもそも世の中に完全に安定している職業などないし、安定=収入というだけの考えで人生そのものが安定しないと本末転倒する。何のために生きて何のために死ぬのか分からなくなる。

 

ただ、スタッフ選挙をしたとしても僕はそんじょそこらの人には負けるつもりはないし、かと言って普遍的に誰にとっても価値があるスタッフというのもあり得ないから生徒のニーズが違ってきてクビになるという可能性は全然あると思ってる。

 

今の八ヶ岳サドベリーをクビになってもサドベリースタッフはやりたいから、他のサドベリーに行きます。必要とあらば、そこのスタッフを蹴落としてまでも。

 

そういうとこは日本よりはアメリカっぽいというのかな、何年も続けてるからこの人にしようとか好きだからとかクビにしたら職失うとか、情ではなくて、本当にスクールとして価値が一番高いスタッフを随時検討してく必要があると思う。スタッフちゃんと雇わないとスクールがつぶれるかもよってとこも生徒が考えるべきところ。

 

逆にクビにされたら困るとか言うスタッフはもう死んでると僕は思ってて、他の仕事はできなくてサドベリーでしか働けない人はちょっと相応しくないなと思う(公教育が嫌だからスタッフするとか、そんな人はおそらく生徒が必要としません)。サドベリーが好きでサドベリーでしか働きたくない人が雇われなかったらドンマイって感じ。

 

ドライと思う人もいるかもしれないが、これが僕は至極当然のことだと思う。だって、生徒のための学校だから。その時に最高のスタッフを雇い続けた結果毎年変わるかもしれないし、長く続くかもしれない。ただ、僕が見る限りやはり優秀なスタッフは雇われ続ける。そこは生徒が一番見る目がある。選挙で17年間選ばれ続けてる西宮のぐら然り。

 

雇うからには、社会人としてまともな給与は支払うべきで、家庭を持っても暮らせる額。それだけ出さないと逆に妥協せざるを得ないような人しか集まらないとも言える。 

 

家庭を持っても暮らせる額ではあるけどいつでもクビになってもいいことが条件だから終身雇用とかはあり得ないし、もしクビにされたら暮らせない生きてけないような人はそもそもスタッフをすべきではない。

 

サドベリーのスタッフなめんなよ!!!って話です。

選択肢の中から選ぶ。という行為は自由ではさらさらない。

 

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

選択肢があるといい。多い方がいい。よく言われることです。僕も確かにそう思います。ですが、選択肢の中から選べることだけが自由なのか?と言われると疑問に思うことがあります。

例えば、AかBかCの中から選んでいいよ~と誰かに用意されて選ぶ場合、3つも選ぶことができるとも言えますし、たったの3つに絞られてしまっているとも言えます。しかももしこれで選ばないという選択肢が無い場合、何らかの選択を迫られていますし、用意されていなければどうなるのかは想像さえできません。

 

僕が一ヶ月だけ通った中学校の話をしましょう。中学校というものには「部活」があります。野球、サッカー、バスケ、柔道、剣道、水泳、陸上、僕はスポーツが大好きなのでこの辺りはとても興味がありました。バスケか?野球か?ってとこまで来てました。これも学校側がある意味一方的に用意した部活ではありますが、この場合は選ばされているとも思いません。僕は楽しみでしたから。

ですが、僕は「どの部活にも入らない」という選択をするのです。既存の選択肢の中には無い行動に出ました。何でかというと、僕はとにかく勉強が出来なければいけないと思っていました。というか、楽しくもないと思ってるのにやるからには100点を取りたいという謎のこだわりがありました。

小学校では100点を取るのはそれほど難しくはなかったですが、中学校ではこのままだと80点くらいになるなと予測していました。そこで考えたのが、部活には入らずに放課後も勉強をしよう。という選択でした。

なんでやねん!って感じなんですけど、この時の僕はそう思ってそうしたんです。新しい選択肢を作ったと言えるでしょう。だけど、それが必ずしも良い方向に行くわけではないとも言えます。その後僕はやはり意味も分からずに勉強するのはおかしいと思ってサドベリーに通うわけですが、このときの選択が正しかったかなんて分かりません。

 

ただ、ある意味僕が自由に選択をしたんだなとは思っていますし、後悔なんてありません。サドベリーに通ったから今があるのは確かですが、サドベリー=自分で生きる力がつくみたいな方程式でもなくて、通う前から選択をする力はあったんです。

 

自由に選択するということは、選択肢の中からも、何も選ばないことも、用意されてる範囲の外からも含めて選ぶということであること。それには責任が伴うということ。

また、公教育では自由な選択ができない。と言い切ってしまうのも偏った視点であって、子どもは日々選択を繰り返して生きているということ。

このあたりを言いたかったので書きました。

 

おわり。

 

 

2校以上のサドベリースクールを体験するのがおすすめなワケ。

 

 

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

ペンネームってかっこいいな。と思って自分で付けましたが、もはや誰にもスーザンなどとは呼ばれていません。

 

僕が八ヶ岳サドベリーのスタッフになって1年が経とうとしています。僕は元々西宮サドベリーの生徒であり、その後スタッフを3年間勤めていました。

それに、最近導入されたサドベリー留学制度によって他のスクールの生徒が八ヶ岳に来るようになって、思うことがあります。

※サドベリー留学↓

yatsugatake-svs.org

 

それは、、、、、

2校以上のサドベリースクールを体験するのが超おすすめ。

ということです。

 

これは是非各スクールのスタッフに読んでほしいし、各スクールの生徒にも知ってほしい。かなりマニアックな記事なので、逆に一般の方には意味が分からないかも。笑

 

サドベリースクールというのは、時間割・評価がない、学校運営に参加できる、年齢ミックス、などのおおよそ共通した理念がありますが、それぞれのスクールによって集まった人や地域性が顕著に現れます。というか、集まった人がすべて、と言っても過言ではありません。

例えば西宮サドベリーでは、やりたい活動があるときに「プロジェクト」を企画できます。お金を使いたい、講師を呼びたい、備品を買いたい、部屋やスタッフを自分一人で専有して使いたい、などなど、ミーティングで承認されれば何でも自由に使うことができるのですが、会計を怠ったり、プロジェクトで何か問題が起こったりすると、そのプロジェクトは停止(ときには廃止)となります。

ミーティングで承認されたことと実際の活動が異なっていると、曖昧な活動にはお金を出せないなど、承認したことが覆るからです。※僕が生徒・スタッフだった時の話なので今は変わっているかもしれません。

また、ルールを破ってしまうと罰則があります。

例)備品を出しっぱなしで帰ってしまったので、翌日備品を使えない
例)プロジェクトで問題が起こったので、解決するまでプロジェクト停止

などなど、ときにはそもそも罰則は必要なのか?という議論がされながら、常に作り替えられて現在に至ります。当然スタッフにも同じく罰則があります。僕はスタッフのときにコップを出しっぱなしにしてしまってコップを使えなくなったりしました。笑

同じルールを破るのが何回も続いた場合、そもそもルールを守る気がないなら退学でもやむを得ないのでは?スタッフとしてふさわしくないのでは?とある意味厳しくも必然的な議論がされます。

 

僕は日本のほぼすべてのサドベリー(デモクラティック)スクールを巡り続けていますが、他のスクールは西宮ほど厳しくはないと思います。おそらく西宮が断トツでルールが多いですし、他のスクールではルールを破っているのを見て見ぬふりしたりすることも見たことがあります。プロジェクトなどというシステムも無い場所もあります。

だけどもこの、徹底した民主主義を実行している西宮サドベリーが「正しい」わけではないんです。それぞれの学校で集まった人によって文化が作られていくので、たまたま西宮に集まった人達がルールに厳しかっただけなんです。その結果、全国で一番生徒が集まっているのは西宮なので、一つの成果として現れてはいるのですがね。

 

僕は今、2校目のスタッフをしていますが、最初は文化の違いに大きなカルチャーショックを受けました。サドベリースクールに当たり前はなく自由に作っていくもの。と思っていたはずが、西宮でやってきたことが僕の当たり前になっていたんです。

ある意味、「これが正しい」くらいに思ってしまっていました。

でも、本当にゼロから物事を考えると、そもそもルールは何のためにあるのか?ミーティングは何のために?サドベリースクールは何のために存在しているのか?と、とても良く考えられて様々な理論を生むことができ、価値観を再構築することができました。

 

この短期留学で、他のスクール生徒が来たりもしていましたが、普段過ごしているベースとは違うベースで過ごすことができる。というのは本当に大きな価値になるなと感じています。ベースというのは、無意識のうちに当たり前になっていること。です。普段から意識して作っている部分も多いはずなので、哲学、とも言えるかもしれません。普段とは違う哲学を目の当たりにするんです。

人は慣れることが得意な生き物です。嫌なことだって当たり前になれば嫌でなく(感じなく)なったりするらしいです。疑問に思っていたことでも疑問でなくなったり。

他のスクールに足を踏み入れるというのは、他の文化に身を置く。ということです。ものすごい数の疑問が湧いてくると思います。その中で自分の生き方を作っていくことが、とてもいい学びになるなと実感しています。

 

だから、スタッフの人は是非他のスクールでスタッフをしてほしい。見学や交流しただけでは分からないです。スタッフ交換制度とかも面白いと思います。自分の職業が今いる場所だけの「〇〇サドベリースクール・スタッフ」なのか、場所を問わない「サドベリースクール・スタッフ」なのかが分かると思いますよ。僕は今はほとんどの人が前者に過ぎないのかなと思っていて、何とか後者でありたいと目指すものであります。

そして、生徒の人はできる限り長く他のスクールに入り込めると、本当に面白いと思います。もう既に一番面白いことをやっているのでしょうが、、、いちスクールOBの独り言として受け流してくれればいいです。

 

本当は言う程のことでもないんですが、とっても面白いからおすすめですよ!

ってだけ、言っておきます。

 

おわり。

 

 

「勉強」っていう概念そのものを疑い続けています。

 

こんにちは。スーザン(@HunterSussan) です。

 

「勉強」って何なんでしょうか。僕は小学校には6年通いながら、常に疑い続けていました。もちろんその後も、サドベリースクールに通いながら考え続けていました。

 

したくないのになんですんの?

役に立たないのになんですんの?

当たり前ってなに?

 

とは思うものの、やるからには100点を取らなければならない。って思ってました。というか、一応授業は受けてるわけですから、一回覚えたことを忘れるのが嫌だったんでしょうね。ほぼほぼ100点をとってました。やる理由が分かってなかったから全然嬉しくもなかったけど。

 

サドベリースクールにはカリキュラム(時間割)がない。ということでよく聞かれるのが、勉強するんですか?できるんですか?というやつです。

これ単体では実に浅はかな問いなんですが、そこから色々なことが起こります。「勉強するのは当たり前。疑ってはいけない。」という固定概念にサヨナラしたら、何かが始まるんです。考えましょう。自分なりの哲学しましょう。

 

サドベリーで聞かれて僕がよく言うのは、「公教育の教科学習という限られた観点での勉強は特にしないかもしれません。本人が必要と思わない限り。」という話です。詳しく書きますね。

 

実際に僕が見てきた範囲で例えてみます。

漢字が好きだからめっちゃ書く、

小説が好きだからめっちゃ読む、

計算好きだからそろばんする、

韓国語喋りたいから韓国人の先生呼んで喋ってみる、

野球好きだからめっちゃ練習する、

ギター弾きたいからめっちゃ練習する、

多くの友達と遊びたいからめっちゃ説得する、

パソコン作りたいから作り方学ぶ、

オンラインゲームで外国人とチャットしたくて英文を学ぶ、

遠足に行きたいから行き方調べる、

高卒認定試験を受けるから教科学習する、

大学受験するから受験勉強する、

一人暮らししたいから費用めっちゃ切り詰めて考える、

自分の人生が分からないからめっちゃ向き合う、

親が言うから仕方なく何となく勉強する、

勉強するのがサドベリーに通う条件だから勉強する、、、、

などなど色んなことが起こっていましたが、すべてに理由があるんですね。中にはくだらないのもいましたね。それも全部フラットに価値付けはされない中で本人が選んでるんですが。

 

よく見ると勉強してる子もいましたけど、「教科学習」という限られた観点での勉強というのは、多様な子ども達のあらゆる選択肢のあくまで一つなんです。

でも「勉強」という概念そのものをもっとよくよく考えてみると、自分に必要な経験を積むことを「勉強」と言えなくもないんじゃないかと思えてきます。

確かに勉強という言葉には、無理やり強いる、という意味も含まれていると思いますが、パティシエになりたいから製菓学校のことを勉強する。としたら強いられてはないですよね。

 

そういう意味では、サドベリーの活動中に知りたくなったことを知っていったり、必要なことを積み重ねていく、というのは実はとても熱心に勉強しているということなのかもしれません。

何事もよくよく考えていると一つの価値観に縛られる必要がなくなり、さらによくよく考えていると、自分なりの考え(哲学)が築き上げられていくと思うんです。

 

めっちゃ、ってめっちゃ書いたんですけど、これはすべての時間が本人の自由の中で何かやり始めたらとことん納得いくまでやってることが多いので強調してみました。笑

何事もゼロから自分と向き合うこと、よくよく考えることが好きで、常に考えたことを出し切るまで語り尽くしたいのが僕なんです。楽しいです。

 

おわり。

 

 

 

僕の親は、サドベリースクールを知らない。

こんにちは。スーザン(@HunterSussan)です。

 

親と子って何なんだろうなと日々考えていますが、ふと、僕の親は僕がしていることをほぼ何一つ把握していないなと思いました。

 

例えば、サドベリースクールに通っていたのに、親はサドベリースクールを知りません。笑

 

サドベリースクールに入るときは、僕が一人で見学に行って一人で入学を決めました。見学した帰りに家で「体験入学するわ。」と言って、体験入学した帰りに家で「入学するわ。」という感じです。

(弟が先に入学するときに母だけは同伴していたと思う。)

 

入学に関しては、親は申込書にサインをするだけで、決定権は完全に僕にありました。親は僕がサドベリースクールに入学することを検討していません。父に至っては、サドベリースクール、という単語すら覚えていないと思います。笑

 

子どもに興味がないのか、何も言わないのは無責任だろ。。。親らしくしてくれよ。。。なんて思うことも思春期にはありましたが、よくよく考えると、僕の人生を親にどうにかしてもらおうなんてのは甘えでしかありません。人と人なんだから。考えれば考えるほど、自分の未熟さが浮き彫りになりました。

 

親と子の人生は別物だ。ということを体現しているような両親でした。僕が実家を出るときの母は「心に穴が開くようだわ...」なんて言ったりもしてましたが。だからといってそれは子どもの人生と割りきっていたんだと思います。

 

もっというと、人前でも僕(と弟)のことを「この子」とか「子ども」とすら呼んでいなかった気がします。「この人」とか、名前でいつも呼ばれていた気がします。

 

この言葉で伝わるか分かりませんが、子育てをこうすればいいとかって方法論ではなく、信頼を体現しているような人なんです。まるで明日も太陽が昇るが如く、僕と弟の存在があるのです。

 

まとめると、僕は22年間親元にいましたが、子どもではなく、人として、育っていったんだろうなと思います。

 

今も両親はおそらく、僕の人生を全く知りません。僕が言いたければ言いますが、特に聞いてくることはないです。

でも、たまに電話したり手紙でやり取りがあると、節目節目で心に響く言葉をくれたりします。

 

子どものことを理解するとか、自由にさせるとか、何かを体験させる、ということ(方法)はあまり大事なことではなく、親と子の人生を人と人として、当たり前のように小さい頃から接してくれていたのが何よりのことだなと、親と子のことを考えるたびにひしひしと実感しています。