サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

クレヨンしんちゃんを子どもに見せたくない理論。

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

僕は子どもの頃からクレヨンしんちゃんが大好きでアニメも漫画も見まくっていましたが、いつ頃にか「子どもに見せたくないテレビ番組ランキング」みたいなのがあって、ワースト1位とかって言われてたことがありました。

 

常にお尻を出している、ウンコぶりぶりとか言う、年上のお姉さんが大好き、汚い・品が無い、悪影響だ、などの酷評をされていて、僕はえぇー!こんなおもろいのになんでやねん!と思ったのを覚えています。めっちゃええ話多いし。

 

お尻を出すのが悪影響で真似されたくない…って我が子がそんなことすらも判断できないと思っちゃうんでしょうか。ただ親が気持ち悪い・不快で見たくないだけかもしれませんね。だからって子どもに見ないことを強制するのは本人の権利の侵害です。自分と違う価値観を尊重して話し合うしかないはずです。

 

ってしんちゃんで例えると、そんなことする親って馬鹿なんじゃないのー?って笑い話にもできそうです。モンスターペアレント然り、そんなことも受け入れられないなんて、という話ですよね。それなりに少なくない人が分かりきって理解できると思います。

 

これ、しんちゃんじゃなかったらどうなんでしょうか。例えば…ゲームとか。学校に行かないとか。勉強しないとか。プロボクサーになるとか。不愉快な異性と交際するとか笑

 

親にとっては不安になることや考えられないようなことを子どもが選んだとしても、すべてにおいて、一意見として私はこう思うと伝えたりやめてほしいんだけどどうかな?と交渉することはできても、親に決める・止める権利はないんです。

 

子どもの権利を奪ってしまう行為は、クレヨンしんちゃん見ちゃダメ!って言ってるくらい顕著なので、親のエゴや不安をこれからは「クレヨンしんちゃん症候群」と呼びたいと思います。

 

おしまい。

「不登校でも大丈夫。」とは絶対に言っちゃいけない。

 

こんにちは。サドベリースクール請負人を目指す、スーザン (@HunterSussan) です。

 

さて今回は、普段当たり前のように使われている言葉を疑ってみようという記事です。

 

不登校でも大丈夫!」という言葉をよく聞きます。不登校支援はしていないサドベリー界隈ではほとんど使われませんが、これは、学校へ行かなければならない。という強い思い込みの反動からくる言い方のように思っています。

 

学校に行かなければとはもう思ってない人でも、無意識に大丈夫じゃないかも?と疑う前提があるから、大丈夫と言うんです。

 

掘り下げて考えていくと、学校に行かなければならない。と思い込む必要が無いだけだと思います。もっともっと考えると、不登校とかもはや関係なくて、人は自分のしていることが大丈夫だと思いたい。だけなのかもしれません。

 

本当は、すべての子どもが不登校でも大丈夫だと保証できる人なんていないはずで、逆にすべての子どもが学校に行かなければならないと確定させられる人もいないはずです。

 

それなのに、でも、と言っちゃう時点で暗にネガティブさを孕んでいますし、大丈夫!と言ってあげなきゃいけない弱い存在ということを無意識に認めていることになると思うんです。そもそも学校に行かないことはネガティブでもなんでもないし、逆に絶対に大丈夫!とか学校行かない方が素晴らしい!とかってポジティブに無理やり持ってくのもどうかなと思います。

 

ということは、普遍的には、すべての子どもにとって不登校になるのは大丈夫かは分からない。が正解ではないにしてもより正確なんじゃないかと思います。もし大丈夫だと言うとしても、あくまで一人ひとりの意見として、僕はそれで大丈夫だったよ。とか、あなたはそうしたいならそれが良いんじゃないかな。くらいしか言えないんです。

 

絶対に言っちゃいけない。と書いたのは、僕がそういう言い方はしたくないというだけです。皆さんは言ってもらっても構わないです。ただ、言葉の一つ一つが持つ力は考えてほしい。

 

昔は特に、行かなければ、という思い込みが強かったように思いますが、これからの子ども達は思い込みを持って生まれてはこないはずなので、もうその言葉は必要ないです。というか、必要がない社会にしていきませんか。

 

個人の私見ですが、「不登校でも大丈夫!」という言い方は、本当に学校へ行くことしか選択ができなかった時代の言葉だと思っています。今は、時代が少しずつですが変わり、行かないこともフラットに選択できるようになりつつあります。ここで大丈夫だと言ってしまうと、時代を逆行してしまうような、そんな気さえするんです。

 

だから僕は、不登校でも大丈夫。とはこれからも絶対に言いません。

 

 

 

民主主義は常に理不尽でもある。

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

 

生徒時代のエピソードシリーズです。

 

サドベリーは好き放題できるから自由すぎて社会性が身に付かないんじゃないか?ということをよく聞かれます。

 

教育にイコールはないと思いますし、社会性が身に付く度合いもそれぞれ異なるので、一律に同じということはないですが、サドベリーは自分の好き勝手にはまったくできないんです。むしろ、好き勝手できる時間があって先生が責任を取ってくれる公教育よりも厳しいかもしれません。

 

こんなエピソードがあります。

 

スクールミーティングで「机の上でご飯を食べていたのに、足を乗せられて汚くて嫌だった。」という訴えがありました。確かに、至極まっとうな訴えです。

ここで、じゃあ足を乗せるのはダメってルールを決めたらどうか?という意見が出ましたが、他の子も意見を出します。え、ほな足は汚いけど汚れた手は汚くないん?顔を乗せるのはいいん?頭は?おなかを乗せるのは?寝るのは?立つのは?腰掛けるのはアカン?と、様々な意見が出ました。アホかとも思いましたが、本来こうしなければならない定義などありません。

みんなそれぞれ机の使い方が違って、汚い、嫌だ、と思うラインが違うことが判明したのです。

その結果、一つのラインを決めるのがそもそも無理なので、【汚い・嫌だから拭いてと言われたら、言われた人が机を拭く】というルールが決まりました。

これは、全員の使い方を認める一方で全員にとって不本意な結果でした。自由に腰掛けたい人、机の上に立ちたい人、手だけはOKだと思う人、これらすべてを自由に出来るのですが、拭いてと言われた瞬間に拭かなければなりません。

手ですら汚い・嫌だと言われたら拭くことになります。ただ、根拠がないのに汚い・嫌だと言ったらそれもまたミーティングで訴えられるでしょう。好き勝手したい個人のことだけを考えると理不尽ではありますが、スクールとしての決定としては、非常に納得がいくものです。

この決定の結果、誰かに拭いてと言われないようにはどうすればいいのか。という考えも自然と働きます。行儀をよくしなければならないから、行儀をよくする。のではなく、他に人に嫌だと思われないためにはどうしよう?と考えます。

これこそがまさに行儀をよくするということであり、自分で実感する生きた社会性なのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

かずまくん事件。

 

こんにちは。スーザン(@HunterSussan)です。最近友人とやり取りをしてて、ふと出てきた僕のサドベリー生徒時代の話が面白かったので書きます。 

僕がサドベリーに通い始めた頃、自由だから何をしてもいいと自分だけの好き勝手にしようとしたけど、民主主義はどう足掻いても自分だけの思い通りにはならないということを痛感した出来事が......

 

 

僕は3歳下の弟と一緒にサドベリーに通っていました。弟の方が先にサドベリーに行きだして後から僕が生徒になったので、サドベリー歴で言えば弟が先輩です。

 

それぞれ好きなことをして過ごしていたある日、弟に「かずま。」と呼ばれたことがありました。呼び捨てにされたんです。

 

その頃の僕はすべてにおいて弟よりも優れていなければ気が済まなかったので、呼び捨てにされることを異常に嫌いました。「コラ、呼び捨てにすんな、しばくぞ、敬意を払え、お兄さまと呼べ!!」くらいに言ってました。割とガチで。

 

(伏線として、もっと小さい頃に弟からお兄ちゃんって呼んでいい?と聞かれたことがあって、僕はそのときは恥ずかしくて、やめてよ~って言いました。それを守って弟はお兄ちゃんって呼んでないんです。かといって名前では呼べないから、普段はねぇとかあのさぁとか言ってたと思います。)

 

当時呼び捨てにされた僕は気が収まらなくなって、ミーティングに議題を出しました。「かずま。と呼ぶことを禁止にしたい。」と。確かにどんなルールも作れるサドベリーです。誰もアホなこと言うなとは言わず話し合いになりました。

 

客観的に見れば、完全に個人の感情の問題をスクール全体に混同していたんですが、その人の呼び名を決めるのならありではないかとなり、「かずまくん。」と呼ぶ。というルールが決まりました。

 

ただ、僕は弟だけに「かずまくん。」と呼ばせようとしていたのに、兄弟だからって一人だけがそう呼ぶことを強制させられるのはおかしい、全員に共通して同じ名前で呼ばれたいならOK。というミーティング決定になったので、全員が「かずまくん。」と呼ばなければならなくなってしまいました。

 

それからは誰かが「なぁ、かずま~」と呼ぶたんびに「あ、かずまくんって呼ばなアカンねやったわ。かずまく~ん。」と...時間も無駄だしそれまでとは違う呼ばれ方に非常に気持ち悪くなりながらの日々が続きました。

 

僕が公私混同をして兄弟(てか僕)の問題をスクールに持ち込んでいるだけだと分かっていたスタッフなんかは、あからさまに「かずまくんさぁ。ねぇねぇ、かずまく~ん?」とわざとらしく連呼していて死ぬほどウザくなったけど、僕がそう呼べって提案して決まったルールなので、何も言えなかったのを覚えています。

 

お分かりでしょうか?

 

これも学びと言えばそうなんでしょうが、僕は弟に呼び捨てにされたくないという個人的な感情の問題をスクールで解決しようとしたことが一番のミスだったんです。

 

スクールを自分の使いたいように使う権利は有していても、それをすべて自分だけの思い通りにするというのは極至難の技なのです。皆が自分のやりたいことを自由にやるんですから。スクールのことすべてに1票の権利があるというのは、言い換えれば1票しかないんです。

 

あとになって気持ち悪すぎて耐えられず、そのルールを自ら消したのは言うまでもありません。

 

ちなみにその後弟は名前では呼ばなくなりましたが、最近はなぜか「かずまくん。」と呼ばれています。笑

 

 

 

スタッフとはなんたるか。

 

※信じると危険な超主観です。

 

サドベリーのシステム上(僕が思うには)、ルールをその時々に合わせてより良く更新し続けていくように、スタッフ陣営もより良く更新し続けていくために毎年選挙(なり何らかの検討)をするべきだと思います。

 

そう思うと、サドベリースタッフに安定など無い。言い方を変えれば、僕はいつまでもフラフラしている。

 

それを言えば、そもそも世の中に完全に安定している職業などないし、安定=収入というだけの考えで人生そのものが安定しないと本末転倒する。何のために生きて何のために死ぬのか分からなくなる。

 

ただ、スタッフ選挙をしたとしても僕はそんじょそこらの人には負けるつもりはないし、かと言って普遍的に誰にとっても価値があるスタッフというのもあり得ないから生徒のニーズが違ってきてクビになるという可能性は全然あると思ってる。

 

今の八ヶ岳サドベリーをクビになってもサドベリースタッフはやりたいから、他のサドベリーに行きます。必要とあらば、そこのスタッフを蹴落としてまでも。

 

そういうとこは日本よりはアメリカっぽいというのかな、何年も続けてるからこの人にしようとか好きだからとかクビにしたら職失うとか、情ではなくて、本当にスクールとして価値が一番高いスタッフを随時検討してく必要があると思う。スタッフちゃんと雇わないとスクールがつぶれるかもよってとこも生徒が考えるべきところ。

 

逆にクビにされたら困るとか言うスタッフはもう死んでると僕は思ってて、他の仕事はできなくてサドベリーでしか働けない人はちょっと相応しくないなと思う(公教育が嫌だからスタッフするとか、そんな人はおそらく生徒が必要としません)。サドベリーが好きでサドベリーでしか働きたくない人が雇われなかったらドンマイって感じ。

 

ドライと思う人もいるかもしれないが、これが僕は至極当然のことだと思う。だって、生徒のための学校だから。その時に最高のスタッフを雇い続けた結果毎年変わるかもしれないし、長く続くかもしれない。ただ、僕が見る限りやはり優秀なスタッフは雇われ続ける。そこは生徒が一番見る目がある。選挙で17年間選ばれ続けてる西宮のぐら然り。

 

雇うからには、社会人としてまともな給与は支払うべきで、家庭を持っても暮らせる額。それだけ出さないと逆に妥協せざるを得ないような人しか集まらないとも言える。 

 

家庭を持っても暮らせる額ではあるけどいつでもクビになってもいいことが条件だから終身雇用とかはあり得ないし、もしクビにされたら暮らせない生きてけないような人はそもそもスタッフをすべきではない。

 

サドベリーのスタッフなめんなよ!!!って話です。