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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

愛情を注ぐコップの話。

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喩えの話。

 

教育・子育て関係の話でよく出る喩えですが、親は注いでいるつもりでも、子どもが求めているコップとは違う所に注いでいて、すれ違いが生まれるみたいなやつ。そんなことありますよね。

 

消防隊のホースが如く

 

とある親子の話ですが、そのお母さんの注ぎ方は、太くて水圧の強いまるで消防隊のホースが如く放出していて(もはや注ぐと言えるのか)、間近でそれを受ける子どもは受け取りたくても痛いから避けたりそっぽを向いてしまったりしました。

 

これでは、受け取ってくれてる感は無いし、注がれてる感もありません。その子どもは、距離が近すぎることが問題だと思い、実家を出て一人暮らしをしました。距離をとってみてわかったことがいくつかあります。

 

親が注がないといけないわけじゃない

子どもは注いでもらわないと育てなくもない

 

そもそも、親だから・子だからこうしなければいけないというのが勘違いでした。うちの親の注ぎ方がそうなのであって、ホースからでも、不器用でも、自分も不器用で受け取れなかったとしても、放出してくれているってだけで嬉しくて。

目を背けていた場所にあったコップに、放出されて飛び散った水滴が勝手に満杯になるまで溜まっていたことに気付きました。それに、毎日ご飯を作ってもらって食べているという時点で注がれてないわけないんやし。

 

立場って本当は関係がなくて、家族以外からも注がれることはたくさんあるし、自分で自分を満たすということも可能です。

なんか子どもって、常に遊びながら水鉄砲で愛情をピュッピュ!って感じで放ってるような気が俺はします。それで大人の方が満たされるということもあると思います。

 

無理して誰かに注いだり、誰かに依存していくよりも、自分を満たすために、自分の時間を作ったり、好きなことをしたり、何もしなかったり。色んなカタチで自分と向き合い試行錯誤し続けていて、結果的に周りにいる誰かのコップまで満たしちゃってるみたいな感じが自然で楽しいなと思います。