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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

義務教育とは、単なる言葉だ。

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こんにちは!スーザンです。

義務教育は行く義務ではないんだよ~!そうだよね~!感動しました☆っていうやつ、未だにあちらこちらで盛り上がっておられるんですが、いつまで言ってんだと思っています。その先はどうすんだよと。公教育もっともっと良くしたい先生や学校の問題点に真剣に取り組む人、新しい学校づくり・場づくりをしている人等等。進化したいと思っている人は言ってる間に動いています。

学校なんか行かなくてもいいんだー!みたいに投げやりな言い方をしちゃうと、現場で必死に頑張ってる先生たちが萎れてしまいかねないなと危惧しつつ、そういう活発な人は捉え方も上手いからそこまで過度に心配していないです。じゃあ別にいいじゃねぇかって。そう、別にいいと思います。色んな人がいますから。

 

先日Twitterにて義務教育についての意識調査をしてみました。

 

twitter.com

 

結果、21%が学校へ行く義務である、68%は学校へ行かなくてもよい、11%がどっちかわからないと回答していました。 3つの中にも色んな意図が含まれているのでどれが正解不正解だと一概には言えませんが、簡単に言うと、、、 

義務教育は子ども側じゃなくて親の義務、国の義務。です。

義務教育とは、国及び自治体が6歳~15歳の子どもに対して普通教育を受けることができる学校を設置する義務であり、その教育を受けたい子どもを親が受けさせる義務です。

子どもが学校へ行く義務だと思っている人は全く甚だしく勘違いしています。子ども側からすれば、《学校へ行く権利》なのです。その勘違いにどれだけの子どもが苦しめられてきたか、、、

 

この辺までは法律もある程度知っていたつもりでしたが、今回色々調べてみてあらためて感じたことと、現時点での見解を述べておきます。

 

 

調べてみた。 

まず、教育基本法を調べてみました。そこには、

日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し”

とあります。ほほう。では日本国憲法を、、、見てみよう。

日本国憲法の中には、

“すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。”

とあります。この“ひとしく”っていうのは、みんなが同じ教育を受けなさいではなくて、《その能力に応じた教育》を受ける権利がみんなにあるってことだよね。ふむ。

ていうか憲法教育基本法も、作られた時の時代の流れ、とか、その時の人たちの想い、まではわからないし、今ここで言及するのが適切かわからないけど、結構いい事書いてるなと思った。

 

教育基本法にはこの憲法の精神にのっとり、「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。 」との一文があります。

これは《生涯学習の理念》ではありますが、生涯とは、生まれてから死ぬまでということなので、子どもにも反映されると考えていいはず。その土壌があってさらに、6歳から15歳に関しては国や自治体が学校を設置する義務があるし、通いたい子どもを通わせる義務が親にはある。ってことなんじゃないかと解釈しました。

 

ちなみに、教育基本法「第一章 教育の目的及び理念」には年齢のことは一切書かれていない。「第二章 教育の実施に関する基本」になって初めて子どもに対する教育の話になる。それも“基本”としてね。

だから、国としての教育って子どもに対してのみを言ってるわけではないし、国が基本として定めた土壌の上で、どうするかは国民一人ひとりに委ねられているんだと思いました。

 

あと都度都度に、“ひとしく”、とか、“平等に”、みたいな表現が出てくるけど、たぶん解釈として正しい(というか健康的な)のは、みんなが同じで在るべき!ではなく、みんなが同じ権利を持っていて、どう使うかはその人しだい!という意味なはずだ。

さらに付け加えると、この法律は一定年齢の子どもに関する就学義務という形であって、一定課程の修得を義務付けているわけではない。つまり、公教育ですら、何かができるようにならなければいけないという事はないのだ。 

 

色々読んでてあらためて思ったのは、超受け取り方次第ですやん!!!ってことです。こう決まってるんだけど僕は公教育は受けない!も自由だし、僕はみんなが行っているから公立へ行くのも自由。しかも、行ったとしても思ってるより自由だった。

学校は、教育は、学びは、いやそもそも、人生は自分で選べるし、“捉え方や考え方が自由にできるように法律が作られている”とすら感じます。

 

じゃあ、“行かなくてもいい”のか?

これだけ読んでもらえたら、行く義務ではないことはわかってもらえたかと思いますが、じゃあ“行かなくてもいい”のか?というと、僕は全員に対してそうは言えません。

行かなければならないへのアンチテーゼ的な意味で行かなくてもいいと言いたくなる気持ちはわかりますが、本当に行かなくてもいいかどうかは何回も言っているように、本人しだいです。

学校へ行った場合のメリット・デメリットがあるように、行かなった場合のメリット・デメリットも人それぞれあります。行ってどうなるのか、行かなくてどうなるのか、自分で考えて自分で選択していたほうが、後から人のせいにしたくなる無駄なエネルギーを使わなくて済みます。結局のところ、自分にとってどうなのか、だけなんです。

 

  • 学校とは、今の自分にとって必要なものを学びに行くところ。
  • 学びとは、遊びや勉学、全てを含めた自分の人生の糧のこと。
  • 教育とは、人間一人ひとりに適した、育つための方法。

全ての人にとっての前提はこれくらいで、あとは自分しだいでいくらでも良いとこ取りをしていけばいいのです。


僕の現時点での結論としては、行く義務は全然ないし、みんなに行かなくてもいいとは言えません。①~③番の選択肢の中で全ての子どもに対して普遍的に言うならば、「どっちかわからない」です。

 

義務教育とは、単なる言葉です。

そもそも、法律を決めるときって、「この法律にするからみんな従え」って決めてる訳じゃないと思うんです。国としてラインを引くけど、実際にどう動いてどう過ごすかは国民一人ひとりの自由であり、自由であるからには責任があります。

義務教育だから仕方ない。みんなが言ってるから当たり前だ。本当にそうですか?

国のせい、学校のせい、先生のせい、親のせい、、、と、人のせいにするのではなく、自分で考えて決めたほうがかっこいいし、あるゆるしがらみや思い込みで不自由な気がしてならないだけで、本当はどのように決めるかの自由をみんな持ってるはずなんですよ。

 

そんなこんなで、義務教育とは、ただの一つの言葉である。

というのが、現時点での僕の見解です。

 

おわりに。

この記事を読んでいただいただけでもホントにありがたいんですけど、何か感じ取ってもらえた方は、ぜひご自身で義務教育についてや、そもそも学校とは、教育とは、学びとは何なのかを知ってより深めてほしいです。

日本国憲法教育基本法以外にも様々な法律や目に見えない意図があり、現在の公教育があります。それは一個人の見解であるこの記事では語りきれないもっと深いものです。

僕はサドベリースクール・スタッフのプロであると自負していますが、日本でサドベリーをやる以上は日本の公教育のこと、もっと知っていきたいと思い、このように調べてみることでさらなる気づきがありました。

気づきは人を進化させる。どんな些細なことでも、気づきを得ようとさえしていれば、人間はどこまでも進化できます。