サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

恥ずかしいのは自分だった。

 

こんにちは。スーザンです。

 
 
昨日に引き続き、母について考えています。
 
母という存在について、ではなく、僕の母について、です。
 
 
思えば母のことを、“恥ずかしい人だ”と思っていた時期がありました。
 
母は知らない人によく声をかけました。迷うことなく人助けをし、必要以上におせっかいをします。空気が読めず(てか読まない)、表面上の付き合いをしたい人を困らせているところなんかもよく見ました。
 
もう、人に迷惑かけるなよ、恥ずかしいじゃん。とか思ってたんですが、それが母の生き方なんです。母は無理はしてないし、基本的に他人を尊重できる人なので、実はほとんど迷惑なんかかけていないんですよね、おそらく。
 
というか、迷惑かけててもかけてなくても、それの何が問題なんでしょうか。母は自分らしく人生を生きているんです。僕が心を開けていなかっただけ。恥ずかしいのは僕の方です。
 
だんだん母がどんな人かわかってきて、そういう癖がある人なんだな、と思えるようになりました。

 

 

癖を愛せば誇りになる。

その人の癖は、その人のこだわり。こだわりというのは、大切にしたいこと。癖を理解し、愛することができれば、誇りになっていくんです。
 
癖をどう捉えるかなんです。受け入れられない事があるならそれも仕方ない。親子は一心同体ではないので、全てを理解し合う必要がそもそもありません。
 
こんな親なんか誇れるわけがないよ!と思っていたけど、順番が逆で、誇れることをしたら誇れるのではなかったんですね。
 
愛したいなら愛せばいい。誇りたいなら誇ればいい。ありがとうもごめんなさいも、自分が本当にそう思って言わないと意味がないのと同じです。
 
 
そういう癖のある人だ。それも母らしいな。と思えてからは、愛しているというか、母を誇りに思って生きている。という感じに僕はなっています。
 
互いに自分の生き様を決めて、これからも必要に応じて頼ったり、楽しいことしたり、支え合うことができればいいなと思います。