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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

多様性という思い込みについて。

こんにちは。スーザン (@HunterSussan)  です。

 

サドベリースクールという学校には、こうするべき、こうせざるべき、というものが存在しないので、ときに、人々のあらゆる思い込みが浮き彫りになったりします。

あらゆる出来事が自分に起因しているかもしれないと思える人はいいんですが、浮き彫りになった思い込みと向き合えず、他人に(特に子どもに)投影してしまうと、しんどくなってきます。

 

思い込みが悪いとかではなく、自分が本当にそう思ってるなら全然いいんですけど、何かが悪いからという理由がベースにあると、自分にベースが無くなって、自分の人生なのに誰かの価値観に必要以上に揺さぶられてしまいます。

 

それと、自分の意見を主張するときに、何を批判したり比較するなど他に理由を付けないと言えないというのも、自分にベースが無い感じがします。あなたはそれが好きなんだね。僕はコレが好きだから。でいいのに。

 

不登校の子はかわいそうな存在だから、支援しなければならないとか。

 

フラットに選びたいと言って、公立校もサドベリーもフラットに選ばなければならないとか。

 

自然食が素晴らしいと言って、自然でない食事を受け入れられないとか。

 

多様性が認められるべきだと言って、多様性を認めない人を認められないとか。

 

思い込みを無くさなければならないとか。

 

こうしたい、かもしれない、って言えばそこからいくらでも派生できそうですけど、こうできない、なければならない、って言っちゃうと他に可能性が無い感じになってしまう。本当は言いたいことは同じようなことでも。日本語って不思議だなと思います。

 

どんな思い込みがあっても、なくても、あるがままの自分は自分で存在していることそのものが素晴らしいし、残念ながらどう足掻いても自分は自分でしかありません。

 

自分を見ていて、知っていて、考えている。

 

ということが、何よりも大きな価値だという視点も持ちつつ、向き合っていこう。

 

おわり。