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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

選択肢の中から選ぶ。という行為は自由ではさらさらない。

 

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

選択肢があるといい。多い方がいい。よく言われることです。僕も確かにそう思います。ですが、選択肢の中から選べることだけが自由なのか?と言われると疑問に思うことがあります。

例えば、AかBかCの中から選んでいいよ~と誰かに用意されて選ぶ場合、3つも選ぶことができるとも言えますし、たったの3つに絞られてしまっているとも言えます。しかももしこれで選ばないという選択肢が無い場合、何らかの選択を迫られていますし、用意されていなければどうなるのかは想像さえできません。

 

僕が一ヶ月だけ通った中学校の話をしましょう。中学校というものには「部活」があります。野球、サッカー、バスケ、柔道、剣道、水泳、陸上、僕はスポーツが大好きなのでこの辺りはとても興味がありました。バスケか?野球か?ってとこまで来てました。これも学校側がある意味一方的に用意した部活ではありますが、この場合は選ばされているとも思いません。僕は楽しみでしたから。

ですが、僕は「どの部活にも入らない」という選択をするのです。既存の選択肢の中には無い行動に出ました。何でかというと、僕はとにかく勉強が出来なければいけないと思っていました。というか、楽しくもないと思ってるのにやるからには100点を取りたいという謎のこだわりがありました。

小学校では100点を取るのはそれほど難しくはなかったですが、中学校ではこのままだと80点くらいになるなと予測していました。そこで考えたのが、部活には入らずに放課後も勉強をしよう。という選択でした。

なんでやねん!って感じなんですけど、この時の僕はそう思ってそうしたんです。新しい選択肢を作ったと言えるでしょう。だけど、それが必ずしも良い方向に行くわけではないとも言えます。その後僕はやはり意味も分からずに勉強するのはおかしいと思ってサドベリーに通うわけですが、このときの選択が正しかったかなんて分かりません。

 

ただ、ある意味僕が自由に選択をしたんだなとは思っていますし、後悔なんてありません。サドベリーに通ったから今があるのは確かですが、サドベリー=自分で生きる力がつくみたいな方程式でもなくて、通う前から選択をする力はあったんです。

 

自由に選択するということは、選択肢の中からも、何も選ばないことも、用意されてる範囲の外からも含めて選ぶということであること。それには責任が伴うということ。

また、公教育では自由な選択ができない。と言い切ってしまうのも偏った視点であって、子どもは日々選択を繰り返して生きているということ。

このあたりを言いたかったので書きました。

 

おわり。