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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

民主主義は常に理不尽でもある。

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

 

生徒時代のエピソードシリーズです。

 

サドベリーは好き放題できるから自由すぎて社会性が身に付かないんじゃないか?ということをよく聞かれます。

 

教育にイコールはないと思いますし、社会性が身に付く度合いもそれぞれ異なるので、一律に同じということはないですが、サドベリーは自分の好き勝手にはまったくできないんです。むしろ、好き勝手できる時間があって先生が責任を取ってくれる公教育よりも厳しいかもしれません。

 

こんなエピソードがあります。

 

スクールミーティングで「机の上でご飯を食べていたのに、足を乗せられて汚くて嫌だった。」という訴えがありました。確かに、至極まっとうな訴えです。

ここで、じゃあ足を乗せるのはダメってルールを決めたらどうか?という意見が出ましたが、他の子も意見を出します。え、ほな足は汚いけど汚れた手は汚くないん?顔を乗せるのはいいん?頭は?おなかを乗せるのは?寝るのは?立つのは?腰掛けるのはアカン?と、様々な意見が出ました。アホかとも思いましたが、本来こうしなければならない定義などありません。

みんなそれぞれ机の使い方が違って、汚い、嫌だ、と思うラインが違うことが判明したのです。

その結果、一つのラインを決めるのがそもそも無理なので、【汚い・嫌だから拭いてと言われたら、言われた人が机を拭く】というルールが決まりました。

これは、全員の使い方を認める一方で全員にとって不本意な結果でした。自由に腰掛けたい人、机の上に立ちたい人、手だけはOKだと思う人、これらすべてを自由に出来るのですが、拭いてと言われた瞬間に拭かなければなりません。

手ですら汚い・嫌だと言われたら拭くことになります。ただ、根拠がないのに汚い・嫌だと言ったらそれもまたミーティングで訴えられるでしょう。好き勝手したい個人のことだけを考えると理不尽ではありますが、スクールとしての決定としては、非常に納得がいくものです。

この決定の結果、誰かに拭いてと言われないようにはどうすればいいのか。という考えも自然と働きます。行儀をよくしなければならないから、行儀をよくする。のではなく、他に人に嫌だと思われないためにはどうしよう?と考えます。

これこそがまさに行儀をよくするということであり、自分で実感する生きた社会性なのではないかと思います。