読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

子どもを「自由にさせる」のでは何の意味もない。

Mylife~趣味:自分と向き合う~ Sociaty~社会に思うこと~

 

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

 

サドベリーをはじめ、「子ども×自由」という方程式に対して、自由にさせていると自分勝手に育つのでは?好きなことしかできなくなるのでは?という意見を聞くことがあるので、ここで言及しておきます。

 

前口上として述べると、こういう聞き方をする人は、自分は不自由に生きていると思っていて自由に生きる人を許せなかったりすると思うのですが、不自由に耐えて日本を作ってきた人もいて今があるので、僕の祖父母やその祖先が存在してこそ僕が存在するので、それ自体は必須であると言わざるを得ません。ただ、その時代を踏襲した上で新しい生き方を模索していくことが今を生きる人の使命だと僕は思っています。

 

僕自身が毎度拙文ながら、皆さんも言葉はよくよく吟味して使うべきです。子どもを「自由にさせる」のでは何の意味もありません。「サドベリーに通わせる」のでは意味がありません。それでは、子どもは自由ではないという前提があるからです。

「子どもに学校を選ばせる」だと、親に学校を選ぶ権利がある前提です。「ピアノの習い事をさせる」「プログラミングの勉強をさせる」これも同じです。させる権利がある前提になります。これらをさせる権利って元来親にあるものでしょうか?

人は生まれつき、ピアノが好きになったら習う権利があって、プログラミングの勉強をしたくなったら勉強をする権利を本人が持っているはずです。興味がないことをさせられる必要はないはずです。

 

少し違う話ですが、なんかの話を聞いたりして「考えさせられました…」と言う人がいますが、いや、お前が考えたんやん!!と僕は思います。

 

サドベリーではスクールの開校時間は全て本人の自由に活動ができますが、開校時間外の過ごし方については全く感知しません。なので、家庭での方針は様々です。

家族でちゃんと交渉した上で決めているなら何の問題もないと思いますが、家では強制的にゲームをしてはいけない・勉強しなければならない。しないとサドベリー辞めさせるよ。しないとご飯抜き。小遣い減らす。などなど。。。権利が親にある家族もあります。

学校と家庭の方針を完全に一致させる必要はさらさらありませんが、違いすぎるのもどうかと思います。サドベリーに変に共感してくる輩の中には、残念ながらそういう人たちもいます。矛盾しているようですが、「子どもを強制的に自由にさせている」のです。

 

矛盾です。子どもは自由と責任を元々持って生まれてきてるのに、それをいつしか奪われてしまって、今度は自由に生きろ・責任を持てと言われるのです。

 

他人が作った自由は疑似体験でしかなく、他人に持てと言われて持った責任はウンコの連鎖でしかありません。どちらも、深いところまで意識がいかないんじゃないかと思います。大人はこんなに素晴らしい経験をさせたと思っていても、子どもはこれでいいやと妥協しています。

 

本当に自由を語りたくば、自分で責任を持ちたければ、学校へ行く行かない、勉強や部活をするしない、飯を食べる食べない、昼間っから寝て夜更かしして、いつ喋って黙るかに至るまでも個人の責任「自由」と言わなくちゃ話になりません。

 

そこまでの自由が子どもにあるのは日本ではサドベリースクールだけだと思います。

 

サドベリーを自分で選んだ子にとっては他のどんな環境よりもずば抜けて好きなことことができて、結果そのまま何の問題もなく社会に出られる。僕は間違いなくそう思います。

 

おわり。