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サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

サドベリーでは「絶望」すら学びでした。

 

 

こんにちは。

サドベリースクール元生徒のスーザン (@HunterSussan) です。

 

遊びと学びがイコールとされるサドベリーですが、人間はつい目の前の物事に優劣を感じてしまう生き物です。

TVゲームに何年間も没頭している子と、夢に向かって元気ハツラツ一直線に頑張っている子と、人付き合いが苦手で他人に常に嫌なことを言う子と、受験勉強を1日何時間もみっちりやっている子と、はたまた何もしていない子と、日々悩み迷い苦しんでいる子と、色んな人がいて、すごいな!エライ!と思ったり理解できない…無駄だ…と思ったりします。

 

全部、自分にはそう見えているだけで本人が何を思って何を学んでいるかは定かではないのに、つい優劣を感じて自分の主観を大きくしてこの人はこうなんだと決め付けてしまいます。

 

僕は基本的にひねくれているというかネガティブに考える人なので、自信があるかないかでいうとない方だと思います。

何事もまず、興味がある・やりたいと思っても経験がないからやれる根拠がない、根拠のない自信を持つなんてバカだろうと考えます。どうせモテない。就職できない。コレやってみたいけど自分にはできない。女の子が僕に関心を寄せているはずがない。と。

それからもっとよくよく考えると、自信が持てないということにも同じように根拠がないことに気が付いて、やってみなければ絶対的に分かり得ない絶望に至るという感じでサドベリー生徒時代は色々なことを考えていました。今も自分ではひねくれていると思っています。

 

僕にとってはこの、「絶望に至る」ということが非常に肝要でした。

スクールのルールを作りたければミーティングに出してみんなを説得する必要があります。誰かの提案に反対したければ理由を説明して理解してもらう必要があります。これは実際の社会もそうだと思います。やりたい・嫌だと思うことは山ほどありますが、こだわりたいから具体的に行動するときと、よくよく考えたらまぁどっちでもいいかと何もしないときがありました。

僕は元々気持ちを言葉にしたり具体化することが上手ではなく、何事もまずひねくれて見るのであまり言いたいことはすぐには言えません。好きなことを何でも選べる中で考えることに多くの時間を費やしながら、すべてが自分しだいだと悟ることで、自分の自由には同じだけの責任が伴うことを理解できました。

 

絶望回帰論とでもいいましょうか。

この自分と向き合うという作業をはたから見ると醜いように見えたかもしれません。以前ブログで書いた「かずまくん事件」然り、モテたいから(女子に限らずですが)とカッコつけて結果的にキモくなって本末転倒する女子キモイ病然り。

 

結論としては、サドベリースクールの理念の中にある「評価をしない」ことがこの学びを生んでいたんだろうなと僕は解釈しています。

親にはもちろん何も言われないしスクールの中は常にフラットな状態で、ふと何かを成功・失敗と捉えたり、善い悪いと思うことがあってもそれはそのときの自分が思っただけで普遍的なものではないのです。

 

もう一つたとえばなしをすると、嫉妬ってありますよね。僕は今の彼女が大好きで自分でいうのもあれですがかなり仲が良く他の人など眼中にないです。それでも嫉妬をすることもあるし未来永劫浮気をしない確証などありません。

ただ、彼女が僕以外の人と会うのは当然本人の権利ですし、浮気をするのも不倫をしても本人の自由やからしたらダメって言う方がオカシイやん。みないなことを普段から話しています。この嫉妬心も、掘り下げてよくよく考えると面白いです。浮気を許せないと思ったらそれが何でなのかを考えるべきタイミングなんです。

 

希望、志望、願望、熱望、要望、切望、想望、羨望、渇望、欲望…望むことすべてを掘り下げて絶望することで、フラットに絶望回帰することができるんです。目を背けて遠ざけても無いことにはならず自分の中に在り続けるものだから、よくよく知ってみるのが一番なんです。

 

学び方は人それぞれですが、思う存分自分に絶望できたことが、僕にとっては肝要でありもはや楽しくもある学びでした。