サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

「学校行かなければならない」は「天動説」と同じ。

 

こんにちは。スーザン (@HunterSussan) です。

先週色々考えていたときに出てきた例えが面白かったので、少し掘り下げてみます。

 

「学校へ行かなれければならない。」と言う人、思っている人がいてますね。これは、「天動説」と同じなのではないかと思いました。何が同じかというと、自分が見ている世界がすべてだと思い込んでいるところです。そして、自分の知らない世界があるかどうかには目を向けず、場合によってはその価値観を他人に押し付けてしまうことがあると思います。

 

「親の言うことにはいつ如何なる場合でも従わなくてはいけない。」

「地球は平らであるから水平線の先へはいけない。どこかへ落ちて死んでしまう。」

「すべての子どもが自分に合った教育・学校を選ばなければならない。」

「規律に束縛される公立校よりも、フリースクールの方が望ましい。」

「サドベリー教育など、子どもにとって自由は最高の教育である。」

「(サドベリーでは)大人は提案してはならない。退屈のプールに浸けるのが善い。」

 

たとえばこういうことを「自分」が思ったり確信するのは自由ですが、「他人」に押し付けてはいけません。価値観が違うと共感し得ない可能性があるからです。

さらに、それぞれの価値観は科学的にも物理的にも誰しもが納得するほどの根拠がないと思うので、ある視点から考えれば「大いに間違っている」ともいえるのですが、間違っているのが「悪」でもありません。

その人がそう思うのには何らかの理由があるはずです。そこにある価値観に目を向けずに「天動説は間違っている、この時代に何を言ってるんだ。」と言い放つのは、それも同じく価値観の押し付けにあたると考えます。

 

すべてにおいて、相手の価値観がそうなのであれば、根本的には、尊重しないということができません。どれだけその解釈が見当違いであっても、相手がそう解釈したことは事実だからです。その解釈を信じるに至る経緯が必ずあります。

必要であれば、「僕は地球が動いていて、しかも球体状なんだという新発見とその根拠を知ってるんだけど聞いてくれる?」とか、「学校ね、行かなくても好きなことだけやってても、自分の望んだ人生送ってる大人を知ってるよ。あと、学校といっても法律が変わってきていたり、選択肢が広がってきてるところもあるんだよ。」とか、提案してみることは自由にできるので、したければしたらいいと思います。

 

僕は、サドベリーってのがありまして…という会話はしてみますが、理解し合える部分とし合えない部分が誰とでもあるので、そのときの自分が話せる・話したいことを出し切ったら、あとは相手しだいですし「天動説」のように「学校行かなければならない」を引き続き信じるのであれば、「来世で会いましょう~」と思います。

 

すべては「会話力」だと思います。これからも頑張りたいです。