サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

「学力」とは?

こんにちは。スーザン(@HunterSussan) です。

 

「学力の高い国は素晴らしいから真似をしよう」「学力UP!学力向上!」と言われているのを見て思ったことがあります。

 

「学力」ってなんなんでしょう。一般的には「学力≒テストの点数(偏差値)」というイメージなのでしょうか。「社会人の学力が…」という言い方はあまり聞きませんから、学生時分の人にしか使われないような言葉のように思いますし、主に小中学校内において必要とされる「知的適応能力」、私学や高校大学等に進学する際の「受験合格能力」とでも言いましょうか。

 

これは近代すべての子どもが学力を身に付けられる環境を保証しようと学校という形で作られてきた狭義の学力ですね。テストという狭義的な方法で学力が付いているかを試せはしても、文字が書けるとか、計算ができるとか、それは至極限られた観点であると思います。その結果だけで学力が高い・低いって決め付けて喜んだり憂いたりして子どもを上げ下げするのは非常に短絡的です。

 

どんな学力が必要なのか、は個人によって当然異なりますし、主体性や自律性、感受性や協調性などの「学校から与えられていない当人が生まれ持ったもの」は細く評価・測定することができないものです。学校どころか誰にも推し量れません。

 

 

もっと根本的な学力とは、人間が活動する上での「基礎≒学ぶ力」ではないでしょうか。自分に必要なこと・社会に必要とされることを学べる「必要な経験を積める力」でもありますし、受験勉強をするときや趣味の練習をするとき、友達と仲良くなるために遊ぶときにも使うものです。

 

そもそも、学力を付けるべきなのか?という疑問が湧きますが、何をしていても自己の経験によって人間の基礎が作られることを考えると、僕たちは「学び方を学んで学力が付いた時点から学べている」のではなく「学びながら学び方を学んでいる」ということになります。

 

そうシンプルに考えると、人間は好きなことをやり続けていれば好きなことができる学力が付きますし、嫌なことをやり続けていれば嫌なことをやれる学力が付きます。

 

たとえば、自分がやりたいことを探して学べる力、他人に言われるがままに学べる力、自分が納得するまで妥協しない力、他人の指示を疑わずに働ける力、とかとか。経験を積めば積むほどにその方向性における「学力」が自然と身に付いていくと思います。

 

もはやこれを「学力」と呼ぶことが相応しいのか分からなくなってきましたが、逆にどんな経験をして生きてても無駄にするか活かすかも含めて糧になる。という前提で広義で考えると「学力がない」という状況は有り得ないと思います。

 

そして、国としても「どんな学力をどこまでどのように付けるべきか」はある程度方向性は掲げつつもやはり個人の裁量、最終的には人権、に委ねているので、教育機会提供の義務を果たすまでで強制連行的なまでの一律付与はしていないんですね。

 

まとめると、どんな学力が身に付いてもいいんですが、好きなことをやり続けて好きなことができる学力を身に付けられるサドベリースクール、デモクラティックスクールはいいな!と思いますし、嫌なことをやり続けて嫌なことをやれる学力を付けるのを選ぶにしても、やはりここは、本人が自分で自分に納得して認めているかどうかでしょう。

 

 

おわり。