サドベリースクールの卒業生たちは今

サドベリーを出た人たちの今を記事にしたり、自分を生きるとはどういうことなのか、日々考えながら書いてます。

サドベリーの保護者は素晴らしい。

こんにちは。スーザンです。

 

2年ちょっと前に働き詰めで半分病みながら開設したこのブログも、今回で100記事を数えました。最初の目的であった「サドベリー・デモクラティックスクール卒業生たちの紹介記事」は10記事ほどしかありませんが、、、言論の自由があるので許してください。もしリクエストがあれば卒業生たちの皆も書いてくれると思います。

 

いつも記事を書こうとして内容を考えているわけではなく、ふと内容が思い付いたら記事にしているのですが、今回は、サドベリーの保護者について書こうと思います。

 

子どもの自由と責任、人間としての権利を100%尊重し、何をしてもしてなくても善悪優劣と評価することなく信頼するサドベリーでは、保護者の協力が不可欠といえます。サドベリーは通うか通わないかを生徒自身が決めることが前提ですが、極論、親が学費を強制的に出さないこともできる以上、親の同意と、同意に至るまでの理解がなくてはならないものです。(一部、自ら働いて稼ぎながら学費を払って通う生徒もいます。)

 

たとえば、サドベリーでは完全に一人の人として扱われているのに、家では一方的に言動を規制されたりしていると、同時に2つの矛盾した環境に身を置いている状態なので、学びも半減どころかほとんど無くなってしまうかもしれません。ただし、学校と家の方針を完璧に合わせろというのも無理な話です。集まった人が違うのでそこにいる人で話し合えばいいんです。

 

僕個人的には、保護者の方がサドベリーを完全に理解する必要はないと思ってます。というか、無理に理解するべきものではないと思ってます。もちろん自ら理解したいと思えば理解できるんですが、子どもが新たな世界に踏み出していくその先はサドベリーだけではないので、子どもの人生すべてを親が理解するのは到底不可能だということです。

ポイントは子どもの選択を尊重して応援できるかだけです。我が子がプロボクサーになると言ったらその道を尊重するけどボクシングのことを理解する必要まではないという感じです。我が子がどうしてもこの人と結婚したいんだと言ったらその選択は尊重するけど相手のことを理解する必要まではないという感じです。

 

ただ、この「子どもを一人の人として尊重する」ということが頭では分かっていると思っているとしても、実際はとても難しいようです。やはり知ってか知らずか子どもの自由と責任を犯している大人は多いです。

僕には子どもがいたことがないので親の気持ちは分からないし、自分に子どもができたらあったりまえに尊重できるだろうと思い上がっているので、今まさに子育て中の親御さんの気持ちは本当によく分かりません。良かれと思って自由と責任を侵害する大人には全く共感できません。

それでも常になんでかなって考えてて、なぜ難しいのか、そのメカニズムは理解しているつもりです。

 

それは、自分の人生には起こらなかったこと(忘れていること)を日々子どもが起こしていくからです。生まれたての赤ちゃんのときは親から離れてしまうと生きていけない一心同体であった我が子が、徐々に、驚くほどの速度で、親の価値観の外にある言動をとっていくからです。

歩けるようになって自分の好きな場所へ行こうとしたり、友達ができて親以外の人間関係が主になっていったり、学校へ行って親の知らないことを学んでいたり、就職をして親に頼らず生きていくようになったり、結婚して親の価値観には合わない人と暮らしを共にしたり、、、子は親の知らないところで価値観や在り方を形成していきます。

僕はこれを、「産みの苦しみ」なんじゃないかと想像しています。男なので産めないのでたぶん永遠に想像しかできないんですが、子どもが新しい世界を手に入れる度に、親は自分の価値観外のことをする子を受け入れる苦しみ、子は親の価値観内から離れる痛みが伴うんだと想像します。

 

それでも、試行錯誤しながら子どもと向き合い、真に自分と向き合っていながら子どもを信頼・尊重している親御さんの姿勢は本当に素晴らしいと思います。僕の親に至っては、サドベリーにはそんなに興味がない(父は一切知らないくらい)けど子どもが通うと宣言したならそれを尊重してくれました。

 

そんな保護者の方々がいてくれるおかげで、生徒となる子ども達は最っ高に楽しい学校生活を送ることができるのです。

 

 向き合うことをやめなければ、必ず道は拓けます。